1777年が明けモーツァルトは1月27日、21歳の誕生日を迎えた。
この頃パリの有名な舞踏家でモーツァルトの親友の一人だったジャン・ジョルジュ・ノヴェールの
娘のヴィクトワール・ジュナミーVictoire Jenamyのために≪クラヴィーア協奏曲(第9番)変ホ長調≫
(K.271)を作曲している。1776年のモーツァルトの3回目のウィーン滞在時に注文が
なされたとされている。
★この協奏曲はフランスのクラヴィーア奏者ヴィクトワール・ジュノム”Victoire Jeunehomme"のために書かれたと
されていたため≪ジュノム協奏曲≫と呼ばれていたが、近年になってヴィクトワール・ジュナミーの為に書かれたことが
確認されたという経緯がある。従い、≪ジュノム協奏曲≫ではなく、≪ジュナミー協奏曲≫ということになる。
この年ザルツブルクを訪問した作曲家フランツ・クサヴァー・ドゥーシェクの夫人ヨゼファ(1754-1824)の
ため、レチタティーボとアリア及びカヴァティーナ(K.272)を作曲している。これを契機として
ドゥーシェク夫妻、特に2歳年上の美しいヨゼファとは非常に気が合い、親密な付き合いが
始まるのである。
★フランツ・クサヴァー・ドゥーシェク(1731-99)は,プラハ在住の作曲家でクラヴィーア奏者。その妻ヨゼファーは、
ソプラノ歌手として、プラハを中心にドイツ・オーストリアで活躍。両人は1776年に結婚。ヨゼファーの母親が、
ザルツブルクの裕福な商人イグナーツ・アントン・ヴァイザーの娘であったことより、夫妻が結婚後1777年にザルツブルクを
訪問、モーツァルトとの交友が始まったのである。
★K.272:≪ああ、私は前からそのことを知っていたの!Ah, lo previdi!ー私の目の前から消え去っておくれ Ah,
t'invola agl' occhi miei ー惨めなこと!彼は虚しく私を求める Misera! Misera! Invan m'adiro,ー
ああ、この波を越えて行かないで下さい Deh, non varcar quell' onda ≫
この頃モーツァルトは宮廷パン焼師、ヨハン・ゲオルク・ファイエルル(1715-1805)の娘でモーツァルトより
1歳年上のマリア・オッティーリェ(1755-96)とかなり親しく付き合っていた。娘の方は真剣に
モーツァルトを愛していた様だが、モーツァルトは結婚までは考えておらず、1777年9月の
マンハイム・パリ旅行を契機にこの娘とは別れるのである。1777年10月23日付でザルツブルクより
レオポルトは、モーツァルトに同行してアウクスブルクに滞在中の妻、アンナ・マリアに宛てた
手紙で次の通り語っている。
≪。。。あの子(注:モーツァルトのこと)と「ツム・シュテルン(星辰亭)」で踊り、あの子にしょっちゅう
とても親密な敬意を表してくれたが、そのあと結局ロレートの修道院に入ってしまった、あの目の
パッチリした宮廷パン焼師の娘さんが、父親の家にまた戻って来たことです。あの娘さんは、
あの子がザルツブルクから旅に出たがっていると聞いて、もう一度あの子に会って、あの子を
引き留めようと思ったのです。だからあの子は、修道院に入るのに費やした派手な衣装や相当な
仕度の費用の全額を父親に代わって払ってあげるほうがいいだろう≫ モーツァルト書簡全集
★上記父レオポルトよりの手紙に対し、モーツァルトは「なんの異議もないので修道院関連経費を自分がザルツブルクに戻るまで
立替払いをし、真剣にことを鎮めて欲しい」と依頼するのである。アウクスブルクより1777年10月24日付書簡
いずれにせよ、付き合っていた女性の修道院経費の負担に同意し、父親にその立替と、事態の
沈静化を依頼するというのは、この女性、マリア・オッティーリェとは相当深い付き合いをしていた
結果であると思わせるのである。
それから丁度10年後の1787年、≪ドン・ジョヴァンニ≫に捨てられたドンナ・エルヴィーラがそれでも
ドン・ジョヴァンニを愛し、ドン・ジョヴァンニ亡き後は「修道院」に入ると語る第2幕(終幕)フィナーレで、
モーツァルトはマリア・オッティーリェのことを思い出すのであろうか。。。
★Donna Elvira:.....................ドンナ・エルヴィーラ
Io men vado in un ritiro......わたくしは隠遁の場(修道院)へまいり
A finir la vita mia..............わたくしの生涯を終えましょう。
21歳のモーツァルトの肖像画 ミラベル宮(大司教の夏の居城)の庭園からの展望
≪黄金拍車勲章をつけたモーツァルト≫
★21歳のモーツァルトの肖像画「黄金拍車勲章をつけたモーツァルト」については「第1回イタリア旅行(その1)」 ご参照。
★黄金拍車勲章:1770年7月5日、当時14歳のモーツァルトはローマ教皇より黄金拍車勲章を受けたが、ザルツブルク
帰着後、肖像画を描く最適な画家に巡りあえず結局7年後、21歳の時にザルツブルクの画家に描かせ、ボローニャの
マルティーニ神父に寄贈された。
★肖像画についてレオポルトは1777年12月22日付の書簡(後述)で同神父に「本人にそっくりであり、まったく
瓜二つで、モーツァルトは本当に絵のとおりである」と述べている。
1777年は9月以前に公務としては、教会ソナタ2曲(ト長調K.274,ハ長調K.278)、ミサ曲
(変ロ長調K.275/272b)、聖母マリアのためのオッフェルトリウム(K.277)、宮廷用の
ディヴェルトメント3曲(変ホ長調K.289/271g、K.287/ 271h),舞曲としては「4つのコントルダンス」
K.267(271c)など約10曲を作曲し、後述する辞表が受理されるまで職務には忠実に従っている
ことがうかがえる。
★ミサ曲 変ロ長調 K.275(K.272b)は求職の旅(マンハイム・パリ)の成功を祈願したミサ曲と考えられる。
マンハイムのモーツァルトに届いた父レオポルトの手紙(1777年12月22日付)において1777年12月21日聖ペテロ教会で
このミサ曲が演奏され、新しくザルツブルク宮廷と契約を結んだばかりのカストラート歌手チェッカレッリ
(Francesco Ceccarelli 1752-1814)が見事に歌ったと連絡してきている。
クラヴィーア協奏曲(第9番)変ホ長調(K.271)
「ジュナミー」(ジュノム)第一楽章 アレグロ 教会ソナタ ハ長調 K.278(271e)
交響曲第一楽章に転用できそうな教会ソナタ
レチタティーヴォとアリアとカヴァティーナ
≪ああ、私は前からそのことを知っていたの!≫K.272
Ah, lo previdi!
サンドリーヌ・ピオー Sandrine Piau(ソプラノ)
レ・タラン・リリク Les Talens Lyriques,
指揮:クリストフ・ルセ Christophe Rousset
Part 1/2:叙唱(レチタティーボ)+アリア Part 2/2:叙唱+カヴァティーナ
叙唱:ああ、私は前からそのことを知っていたの! 叙唱:惨めなこと!彼は虚しく私を求める
(Recitativo) Ah, lo previdi! (Recitativo) Misera! Misera! Invan m'adiro,
アリア:私の目の前から消え去っておくれ カヴァティーナ:ああ、この波を越えて行かないで下さい
(Aria) Ah, t'invola agl' occhi miei (Cavatina) Deh, non varcar quell' onda
★K.272の作詞者はヴィットーリオ・アメデーオ・チーニャ=サンティ(Vittorio Amedeo Cigna=Santiの「アンドロメダ」
第3幕第10場。「アンドロメダ」は1774年のカーニヴァルに、ミラノの宮廷劇場でパイジェッロの作曲で初演された
オペラ・セリア。アルゴスの王エウリステオの娘であるアンドロメダが王との約束に従い、彼女を助け出したペルセウスが、
その約束を反故にされ、心をすさませていることを聞きつけ、父に対して怒りをぶちまける場面である。レチタティーヴォは
管弦楽伴奏付。
1777年3月14日、大司教に父子で休暇願を提出するが却下された。先代とは異なり秩序第一の
官僚的な大司教コロレド伯にとっては受け入れ難い休暇願なのである。
★モーツァルトはこの頃、まるで交響曲の第一楽章のような教会ソナタ ハ長調 K.278(271e)を作曲している。
★4月1日神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世はお忍びでパリ旅行を試みている。フォン・ファルケンシュタイン伯爵という
変名での旅行であった。この旅行でヨーゼフ2世は、1756年に結ばれたオーストリアとフランスの同盟が当時著しく
弱体化しつつあった現状を回復しようと企てたのであった。ヨーゼフ2世は5月30日にパリを発ち、南フランスとスイスを経て
ウィーンに戻ったが、7月31日にザルツブルクに立ち寄り、大司教と会見している。
8月になってヴォルフガングの宮廷楽団の辞職願を提出したところ、受理はされたが同時に
父レオポルトの辞職も認めるとの内容であった為、レオポルトは大司教に願い出で、
レオポルト自身の辞職(実質的解雇)についての回避策はとったが、休暇は取れない状況となった。
★なぜ辞表を出す決断をしたかについては、レオポルトがボローニャのマルティーニ神父に21歳のモーツァルトの
肖像画「黄金拍車勲章をつけたモーツァルト」の送付案内を記した1777年12月22日付の書簡(全文イタリア語)に
要旨次の通り語っている。
≪「主君(注:大司教コロレド伯のこと)が「おまえの息子はなにも心得ておらぬぞ。ナポリの音楽院にでも入って、
音楽を勉強したらどうだ」≫という発言をしたことがモーツァルトが職を辞してザルツブルクを去る決心をし、
父である自分もそれに同意した。。。≫
こういった事情により9月23日、21歳のモーツァルトは母のアンナ・マリア(当時56歳)と二人で
マンハイムに向けザルツブルクを2年半ぶりに出発したのである。
★ザルツブルクを発った時はパリへの旅行は考えておらず、マンハイムの宮廷あるいはその途上に立ち寄る
ミュンヘンの宮廷での就職の可能性を探ることが目的であった。
出発時、レオポルトは風邪で体調を崩し、長女のナンネル(マリア・アンナ、26歳)は別離の
悲しみから一日中泣いて過ごし、しまいには気分まで悪くなり、寝込んでしまったのである。
まるでこの別れが母との最後の別れとなるのを予見していたかのように。。。
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レクイエム
モーツァルト生誕254周年
モーツァルトの馬車の旅
モーツァルトの西方大旅行①(パリ)
モーツァルトの西方大旅行②(ロンドン①)
モーツァルトの西方大旅行③(ロンドン②)
猫とモーツァルト
モーツァルトの西方大旅行④(フランドルとオランダ)
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モーツァルトのミュンヘン旅行≪「偽の女庭師」作曲・上演の旅≫
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モーツァルト24歳・ザルツブルク在住最後の年(1780年)
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モーツァルト26歳の結婚と「後宮からの誘拐」(ウィーン②1782年)
モーツァルト27歳・演奏会の成功とザルツブルク里帰り(ウィーン③1783年)
ピアノ・ソナタ(第13番)変ロ長調 と動物たち(1783年ザルツブルクの帰途立ち寄ったリンツ関連)
モーツァルト28歳・演奏活動絶頂期(ウィーン④1784年)
モーツァルトと小鳥たち (クラビーア協奏曲(第17番)ト長調(K.453)第三楽章の主題を歌うムクドリとモーツァルト)
父レオポルト、絶頂期のモーツァルト29歳を訪問(ウィーン⑤1785年)
モーツァルト30歳・「劇場支配人」と「フィガロの結婚」(ウィーン⑥1786年)
フィガロの結婚(その1)序曲+第一幕第一景第一曲
モーツァルト31歳・父レオポルトの死と「ドン・ジョヴァンニ」(ウィーン⑦1787年)
ドン・ジョヴァンニ(その1)
モーツァルト32歳・三大交響曲とブフベルク書簡(ウィーン⑧1788年)
モーツァルト33歳・プロイセン(北ドイツ)への旅(ウィーン⑨1789年)
モーツァルト34歳・「コシ・ファン・トゥッテ」(ウィーン⑩1790年)
モーツァルト35歳前半・「皇帝ティートの慈悲」(ウィーン⑪1791年前半)
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なされたとされている。
★この協奏曲はフランスのクラヴィーア奏者ヴィクトワール・ジュノム”Victoire Jeunehomme"のために書かれたと
されていたため≪ジュノム協奏曲≫と呼ばれていたが、近年になってヴィクトワール・ジュナミーの為に書かれたことが
確認されたという経緯がある。従い、≪ジュノム協奏曲≫ではなく、≪ジュナミー協奏曲≫ということになる。
この年ザルツブルクを訪問した作曲家フランツ・クサヴァー・ドゥーシェクの夫人ヨゼファ(1754-1824)の
ため、レチタティーボとアリア及びカヴァティーナ(K.272)を作曲している。これを契機として
ドゥーシェク夫妻、特に2歳年上の美しいヨゼファとは非常に気が合い、親密な付き合いが
始まるのである。
★フランツ・クサヴァー・ドゥーシェク(1731-99)は,プラハ在住の作曲家でクラヴィーア奏者。その妻ヨゼファーは、
ソプラノ歌手として、プラハを中心にドイツ・オーストリアで活躍。両人は1776年に結婚。ヨゼファーの母親が、
ザルツブルクの裕福な商人イグナーツ・アントン・ヴァイザーの娘であったことより、夫妻が結婚後1777年にザルツブルクを
訪問、モーツァルトとの交友が始まったのである。
★K.272:≪ああ、私は前からそのことを知っていたの!Ah, lo previdi!ー私の目の前から消え去っておくれ Ah,
t'invola agl' occhi miei ー惨めなこと!彼は虚しく私を求める Misera! Misera! Invan m'adiro,ー
ああ、この波を越えて行かないで下さい Deh, non varcar quell' onda ≫
この頃モーツァルトは宮廷パン焼師、ヨハン・ゲオルク・ファイエルル(1715-1805)の娘でモーツァルトより
1歳年上のマリア・オッティーリェ(1755-96)とかなり親しく付き合っていた。娘の方は真剣に
モーツァルトを愛していた様だが、モーツァルトは結婚までは考えておらず、1777年9月の
マンハイム・パリ旅行を契機にこの娘とは別れるのである。1777年10月23日付でザルツブルクより
レオポルトは、モーツァルトに同行してアウクスブルクに滞在中の妻、アンナ・マリアに宛てた
手紙で次の通り語っている。
≪。。。あの子(注:モーツァルトのこと)と「ツム・シュテルン(星辰亭)」で踊り、あの子にしょっちゅう
とても親密な敬意を表してくれたが、そのあと結局ロレートの修道院に入ってしまった、あの目の
パッチリした宮廷パン焼師の娘さんが、父親の家にまた戻って来たことです。あの娘さんは、
あの子がザルツブルクから旅に出たがっていると聞いて、もう一度あの子に会って、あの子を
引き留めようと思ったのです。だからあの子は、修道院に入るのに費やした派手な衣装や相当な
仕度の費用の全額を父親に代わって払ってあげるほうがいいだろう≫ モーツァルト書簡全集
★上記父レオポルトよりの手紙に対し、モーツァルトは「なんの異議もないので修道院関連経費を自分がザルツブルクに戻るまで
立替払いをし、真剣にことを鎮めて欲しい」と依頼するのである。アウクスブルクより1777年10月24日付書簡
いずれにせよ、付き合っていた女性の修道院経費の負担に同意し、父親にその立替と、事態の
沈静化を依頼するというのは、この女性、マリア・オッティーリェとは相当深い付き合いをしていた
結果であると思わせるのである。
それから丁度10年後の1787年、≪ドン・ジョヴァンニ≫に捨てられたドンナ・エルヴィーラがそれでも
ドン・ジョヴァンニを愛し、ドン・ジョヴァンニ亡き後は「修道院」に入ると語る第2幕(終幕)フィナーレで、
モーツァルトはマリア・オッティーリェのことを思い出すのであろうか。。。
★Donna Elvira:.....................ドンナ・エルヴィーラ
Io men vado in un ritiro......わたくしは隠遁の場(修道院)へまいり
A finir la vita mia..............わたくしの生涯を終えましょう。
21歳のモーツァルトの肖像画 ミラベル宮(大司教の夏の居城)の庭園からの展望
≪黄金拍車勲章をつけたモーツァルト≫
★21歳のモーツァルトの肖像画「黄金拍車勲章をつけたモーツァルト」については「第1回イタリア旅行(その1)」 ご参照。
★黄金拍車勲章:1770年7月5日、当時14歳のモーツァルトはローマ教皇より黄金拍車勲章を受けたが、ザルツブルク
帰着後、肖像画を描く最適な画家に巡りあえず結局7年後、21歳の時にザルツブルクの画家に描かせ、ボローニャの
マルティーニ神父に寄贈された。
★肖像画についてレオポルトは1777年12月22日付の書簡(後述)で同神父に「本人にそっくりであり、まったく
瓜二つで、モーツァルトは本当に絵のとおりである」と述べている。
1777年は9月以前に公務としては、教会ソナタ2曲(ト長調K.274,ハ長調K.278)、ミサ曲
(変ロ長調K.275/272b)、聖母マリアのためのオッフェルトリウム(K.277)、宮廷用の
ディヴェルトメント3曲(変ホ長調K.289/271g、K.287/ 271h),舞曲としては「4つのコントルダンス」
K.267(271c)など約10曲を作曲し、後述する辞表が受理されるまで職務には忠実に従っている
ことがうかがえる。
★ミサ曲 変ロ長調 K.275(K.272b)は求職の旅(マンハイム・パリ)の成功を祈願したミサ曲と考えられる。
マンハイムのモーツァルトに届いた父レオポルトの手紙(1777年12月22日付)において1777年12月21日聖ペテロ教会で
このミサ曲が演奏され、新しくザルツブルク宮廷と契約を結んだばかりのカストラート歌手チェッカレッリ
(Francesco Ceccarelli 1752-1814)が見事に歌ったと連絡してきている。
クラヴィーア協奏曲(第9番)変ホ長調(K.271)
「ジュナミー」(ジュノム)第一楽章 アレグロ 教会ソナタ ハ長調 K.278(271e)
交響曲第一楽章に転用できそうな教会ソナタ
レチタティーヴォとアリアとカヴァティーナ
≪ああ、私は前からそのことを知っていたの!≫K.272
Ah, lo previdi!
サンドリーヌ・ピオー Sandrine Piau(ソプラノ)
レ・タラン・リリク Les Talens Lyriques,
指揮:クリストフ・ルセ Christophe Rousset
Part 1/2:叙唱(レチタティーボ)+アリア Part 2/2:叙唱+カヴァティーナ
叙唱:ああ、私は前からそのことを知っていたの! 叙唱:惨めなこと!彼は虚しく私を求める
(Recitativo) Ah, lo previdi! (Recitativo) Misera! Misera! Invan m'adiro,
アリア:私の目の前から消え去っておくれ カヴァティーナ:ああ、この波を越えて行かないで下さい
(Aria) Ah, t'invola agl' occhi miei (Cavatina) Deh, non varcar quell' onda
★K.272の作詞者はヴィットーリオ・アメデーオ・チーニャ=サンティ(Vittorio Amedeo Cigna=Santiの「アンドロメダ」
第3幕第10場。「アンドロメダ」は1774年のカーニヴァルに、ミラノの宮廷劇場でパイジェッロの作曲で初演された
オペラ・セリア。アルゴスの王エウリステオの娘であるアンドロメダが王との約束に従い、彼女を助け出したペルセウスが、
その約束を反故にされ、心をすさませていることを聞きつけ、父に対して怒りをぶちまける場面である。レチタティーヴォは
管弦楽伴奏付。
1777年3月14日、大司教に父子で休暇願を提出するが却下された。先代とは異なり秩序第一の
官僚的な大司教コロレド伯にとっては受け入れ難い休暇願なのである。
★モーツァルトはこの頃、まるで交響曲の第一楽章のような教会ソナタ ハ長調 K.278(271e)を作曲している。
★4月1日神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世はお忍びでパリ旅行を試みている。フォン・ファルケンシュタイン伯爵という
変名での旅行であった。この旅行でヨーゼフ2世は、1756年に結ばれたオーストリアとフランスの同盟が当時著しく
弱体化しつつあった現状を回復しようと企てたのであった。ヨーゼフ2世は5月30日にパリを発ち、南フランスとスイスを経て
ウィーンに戻ったが、7月31日にザルツブルクに立ち寄り、大司教と会見している。
8月になってヴォルフガングの宮廷楽団の辞職願を提出したところ、受理はされたが同時に
父レオポルトの辞職も認めるとの内容であった為、レオポルトは大司教に願い出で、
レオポルト自身の辞職(実質的解雇)についての回避策はとったが、休暇は取れない状況となった。
★なぜ辞表を出す決断をしたかについては、レオポルトがボローニャのマルティーニ神父に21歳のモーツァルトの
肖像画「黄金拍車勲章をつけたモーツァルト」の送付案内を記した1777年12月22日付の書簡(全文イタリア語)に
要旨次の通り語っている。
≪「主君(注:大司教コロレド伯のこと)が「おまえの息子はなにも心得ておらぬぞ。ナポリの音楽院にでも入って、
音楽を勉強したらどうだ」≫という発言をしたことがモーツァルトが職を辞してザルツブルクを去る決心をし、
父である自分もそれに同意した。。。≫
こういった事情により9月23日、21歳のモーツァルトは母のアンナ・マリア(当時56歳)と二人で
マンハイムに向けザルツブルクを2年半ぶりに出発したのである。
★ザルツブルクを発った時はパリへの旅行は考えておらず、マンハイムの宮廷あるいはその途上に立ち寄る
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出発時、レオポルトは風邪で体調を崩し、長女のナンネル(マリア・アンナ、26歳)は別離の
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