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ザルツブルクのモーツァルト21歳(求職の旅へ)

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1777年が明けモーツァルトは1月27日、21歳の誕生日を迎えた。

この頃パリの有名な舞踏家でモーツァルトの親友の一人だったジャン・ジョルジュ・ノヴェールの
娘のヴィクトワール・ジュナミーVictoire Jenamyのために≪クラヴィーア協奏曲(第9番)変ホ長調
(K.271)を作曲している。1776年のモーツァルトの3回目のウィーン滞在時に注文が
なされたとされている。

★この協奏曲はフランスのクラヴィーア奏者ヴィクトワール・ジュノム”Victoire Jeunehomme"のために書かれたと
されていたため≪ジュノム協奏曲≫と呼ばれていたが、近年になってヴィクトワール・ジュナミーの為に書かれたことが
確認されたという経緯がある。従い、≪ジュノム協奏曲≫ではなく、≪ジュナミー協奏曲≫ということになる。

この年ザルツブルクを訪問した作曲家フランツ・クサヴァー・ドゥーシェクの夫人ヨゼファ(1754-1824)
ため、レチタティーボとアリア及びカヴァティーナ(K.272)を作曲している。これを契機として
ドゥーシェク夫妻、特に2歳年上の美しいヨゼファとは非常に気が合い、親密な付き合いが
始まるのである。
 
★フランツ・クサヴァー・ドゥーシェク(1731-99)は,プラハ在住の作曲家でクラヴィーア奏者。その妻ヨゼファーは、
ソプラノ歌手として、プラハを中心にドイツ・オーストリアで活躍。両人は1776年に結婚。ヨゼファーの母親が、
ザルツブルクの裕福な商人イグナーツ・アントン・ヴァイザーの娘であったことより、夫妻が結婚後1777年にザルツブルクを
訪問、モーツァルトとの交友が始まったのである。
★K.272:≪ああ、私は前からそのことを知っていたの!Ah, lo previdi!ー私の目の前から消え去っておくれ Ah,
t'invola agl' occhi miei ー惨めなこと!彼は虚しく私を求める Misera! Misera! Invan m'adiro,ー
ああ、この波を越えて行かないで下さい Deh, non varcar quell' onda ≫

この頃モーツァルトは宮廷パン焼師、ヨハン・ゲオルク・ファイエルル(1715-1805)の娘でモーツァルトより
1歳年上のマリア・オッティーリェ(1755-96)とかなり親しく付き合っていた。娘の方は真剣に
モーツァルトを愛していた様だが、モーツァルトは結婚までは考えておらず、1777年9月の
マンハイム・パリ旅行を契機にこの娘とは別れるのである。1777年10月23日付でザルツブルクより
レオポルトは、モーツァルトに同行してアウクスブルクに滞在中の妻、アンナ・マリアに宛てた
手紙で次の通り語っている。
≪。。。あの子(注:モーツァルトのこと)と「ツム・シュテルン(星辰亭)」で踊り、あの子にしょっちゅう
とても親密な敬意を表してくれたが、そのあと結局ロレートの修道院に入ってしまった、あの目の
パッチリした宮廷パン焼師の娘さんが、父親の家にまた戻って来たことです。あの娘さんは、
あの子がザルツブルクから旅に出たがっていると聞いて、もう一度あの子に会って、あの子を
引き留めようと思ったのです。だからあの子は、修道院に入るのに費やした派手な衣装や相当な
仕度の費用の全額を父親に代わって払ってあげるほうがいいだろう≫   モーツァルト書簡全集

★上記父レオポルトよりの手紙に対し、モーツァルトは「なんの異議もないので修道院関連経費を自分がザルツブルクに戻るまで
立替払いをし、真剣にことを鎮めて欲しい」と依頼するのである。アウクスブルクより1777年10月24日付書簡

いずれにせよ、付き合っていた女性の修道院経費の負担に同意し、父親にその立替と、事態の
沈静化を依頼するというのは、この女性、マリア・オッティーリェとは相当深い付き合いをしていた
結果であると思わせるのである。

それから丁度10年後の1787年、≪ドン・ジョヴァンニ≫に捨てられたドンナ・エルヴィーラがそれでも
ドン・ジョヴァンニを愛し、ドン・ジョヴァンニ亡き後は「修道院」に入ると語る第2幕(終幕)フィナーレで、
モーツァルトはマリア・オッティーリェのことを思い出すのであろうか。。。

★Donna Elvira:.....................ドンナ・エルヴィーラ
 Io men vado in un ritiro......わたくしは隠遁の場(修道院)へまいり
  A finir la vita mia..............わたくしの生涯を終えましょう。


17.jpg     View_of_Salzburg_Fortress_from_Mirabell_Gardens.jpg
21歳のモーツァルトの肖像画                    ミラベル宮(大司教の夏の居城)の庭園からの展望
黄金拍車勲章をつけたモーツァルト

★21歳のモーツァルトの肖像画「黄金拍車勲章をつけたモーツァルト」については「第1回イタリア旅行(その1)」 ご参照。
★黄金拍車勲章:1770年7月5日、当時14歳のモーツァルトはローマ教皇より黄金拍車勲章を受けたが、ザルツブルク
帰着後、肖像画を描く最適な画家に巡りあえず結局7年後、21歳の時にザルツブルクの画家に描かせ、ボローニャの
マルティーニ神父に寄贈された。
★肖像画についてレオポルトは1777年12月22日付の書簡(後述)で同神父に「本人にそっくりであり、まったく
瓜二つで、モーツァルトは本当に絵のとおりである」と述べている。

1777年は9月以前に公務としては、教会ソナタ2曲(ト長調K.274,ハ長調K.278)、ミサ曲
(変ロ長調K.275/272b)、聖母マリアのためのオッフェルトリウム(K.277)、宮廷用の
ディヴェルトメント3曲(変ホ長調K.289/271g、K.287/ 271h),舞曲としては「4つのコントルダンス」
K.267(271c)など約10曲を作曲し、後述する辞表が受理されるまで職務には忠実に従っている
ことがうかがえる。

★ミサ曲 変ロ長調 K.275(K.272b)は求職の旅(マンハイム・パリ)の成功を祈願したミサ曲と考えられる。
マンハイムのモーツァルトに届いた父レオポルトの手紙(1777年12月22日付)において1777年12月21日聖ペテロ教会で
このミサ曲が演奏され、新しくザルツブルク宮廷と契約を結んだばかりのカストラート歌手チェッカレッリ
(Francesco Ceccarelli 1752-1814)が見事に歌ったと連絡してきている。

クラヴィーア協奏曲(第9番)変ホ長調(K.271)
「ジュナミー」(ジュノム)第一楽章 アレグロ                教会ソナタ ハ長調 K.278(271e)

      
                                   交響曲第一楽章に転用できそうな教会ソナタ


レチタティーヴォとアリアとカヴァティーナ
ああ、私は前からそのことを知っていたの!≫K.272
Ah, lo previdi!
サンドリーヌ・ピオー Sandrine Piau(ソプラノ)
レ・タラン・リリク Les Talens Lyriques,
指揮:クリストフ・ルセ Christophe Rousset
Part 1/2:叙唱(レチタティーボ)+アリア                  Part 2/2:叙唱+カヴァティーナ
         
叙唱:ああ、私は前からそのことを知っていたの!           叙唱:惨めなこと!彼は虚しく私を求める
(Recitativo) Ah, lo previdi!                  (Recitativo) Misera! Misera! Invan m'adiro,
アリア:私の目の前から消え去っておくれ                カヴァティーナ:ああ、この波を越えて行かないで下さい     
(Aria) Ah, t'invola agl' occhi miei               (Cavatina) Deh, non varcar quell' onda          

★K.272の作詞者はヴィットーリオ・アメデーオ・チーニャ=サンティ(Vittorio Amedeo Cigna=Santiの「アンドロメダ」
第3幕第10場。「アンドロメダ」は1774年のカーニヴァルに、ミラノの宮廷劇場でパイジェッロの作曲で初演された
オペラ・セリア。アルゴスの王エウリステオの娘であるアンドロメダが王との約束に従い、彼女を助け出したペルセウスが、
その約束を反故にされ、心をすさませていることを聞きつけ、父に対して怒りをぶちまける場面である。レチタティーヴォは
管弦楽伴奏付。

1777年3月14日大司教に父子で休暇願を提出するが却下された。先代とは異なり秩序第一
官僚的大司教コロレド伯にとっては受け入れ難い休暇願なのである。

★モーツァルトはこの頃、まるで交響曲の第一楽章のような教会ソナタ ハ長調 K.278(271e)を作曲している。
★4月1日神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世はお忍びでパリ旅行を試みている。フォン・ファルケンシュタイン伯爵という
変名での旅行であった。この旅行でヨーゼフ2世は、1756年に結ばれたオーストリアとフランスの同盟が当時著しく
弱体化しつつあった現状を回復しようと企てたのであった。ヨーゼフ2世は5月30日にパリを発ち、南フランスとスイスを経て
ウィーンに戻ったが、7月31日にザルツブルクに立ち寄り、大司教と会見している。

8月になってヴォルフガングの宮廷楽団の辞職願を提出したところ、受理はされたが同時に
父レオポルトの辞職も認めるとの内容であった為、レオポルトは大司教に願い出で、
レオポルト自身の辞職(実質的解雇)についての回避策はとったが、休暇は取れない状況となった。

★なぜ辞表を出す決断をしたかについては、レオポルトがボローニャのマルティーニ神父に21歳のモーツァルトの
肖像画「黄金拍車勲章をつけたモーツァルト」の送付案内を記した1777年12月22日付の書簡(全文イタリア語)に
要旨次の通り語っている。
≪「主君(注:大司教コロレド伯のこと)が「おまえの息子はなにも心得ておらぬぞ。ナポリの音楽院にでも入って、
音楽を勉強したらどうだ」≫という発言をしたことがモーツァルトが職を辞してザルツブルクを去る決心をし、
父である自分もそれに同意した。。。≫


こういった事情により9月23日、21歳のモーツァルトは母のアンナ・マリア(当時56歳)と二人で
マンハイムに向けザルツブルク2年半ぶりに出発したのである。

★ザルツブルクを発った時はパリへの旅行は考えておらず、マンハイムの宮廷あるいはその途上に立ち寄る
ミュンヘンの宮廷での就職の可能性を探ることが目的であった。

出発時、レオポルトは風邪で体調を崩し、長女のナンネル(マリア・アンナ、26歳)は別離の
悲しみから一日中泣いて過ごし、しまいには気分まで悪くなり、寝込んでしまったのである。
まるでこの別れとの最後の別れとなるのを予見していたかのように。。。



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犬とモーツァルト

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わが家のピンペス嬢はご機嫌いかがですか?

モーツァルトが最初に愛犬「ピンペス」を手紙に登場させたのは第3回目のウィーン旅行の時で、
姉のナンネルにこの様に問いかけている。(ウィーン、1773年8月21日付)

ザルツブルクのモーツァルト家では名前は「ビンペス」、愛称は「ピンペルル」という雌の
フォックステリアを飼っていた。「ビンペス嬢」とか「ビンペルル嬢」などと呼ばれて家族間の
手紙やナンネルの日記帳にしばしば登場するのである。

★フォックステリアであることはモーツァルトと共にミュンヘン滞在中の母アンナ・マリアがレオポルトに書いた手紙
(1777年10月2日付)で、≪ビンペルルが(私の望みどおりに)自分の義務を果たし、あなたに体をすりよせてきますように。
だって、良き忠実なフォックステリアなんですもの。≫と記していることから明らかとなっている。
注:上記の文中「自分の義務」とは、フォックステリアの元来の役割である害獣駆除(ネズミ捕獲など)のことであろうと思われる。
★犬の名前が家族それぞれ微妙に異なっているのであるが、モーツァルトと母親のアンナ・マリアは特に語源を気にすることなく、
スペリングも発音もしたのであろうと思われ、父レオポルトと長女のナンネルが使用している「ピンペス」”Pimpes”が名前で
「ピンペルル」”Pimperl”愛称であると解釈すべきであろう。因みにモーツァルトは「ビンベス」”Bimbes"又は 「ビンベルル」
”Bimberl"と呼び(綴り)、母親は「ビンペス」”Bimpes”又は「ビンペルル」”Bimperl”と呼んで(綴って)いる。

ピンペス」はモーツァルトと母アンナ・マリアが1777年9月23日「マンハイム・パリ旅行(求職の旅)」に
出発した後の家族間の手紙に頻繁に登場するのである。

まず、母子の出発時のナンネルピンペスの様子についてレオポルトは次の通りミュンヘン
モーツァルトに語るのである。
ナンネルはまったくびっくりするほど泣いたので、私はあの子を慰めてやるのにひどく苦労した。
あの子は頭痛がすると訴え、しかも胃がおかしくなって、とうとう吐き気を催し、どっと吐いてしまった。
頭を巻いて、ベッドに寝て、雨戸を閉めた。ピンペスも悲しそうにあの子のそばに寝そべっていたよ。≫
(ザルツブルク、1777年9月25日付)

それから3日後の手紙でナンネルモーツァルトに次の通り語っている。(1777年9月28日付)
ピンペス嬢はなおずっと希望のうちに暮らしていて、半時間も門のところに立ったり座ったりして、
あんたがたが今にもやってくるものと思っています。それでも彼女は元気で食べもし、飲みもし、
眠りもし、ウ●チもし、またオシ●コもしています。

同年10月12日付の手紙でレオポルトが語るには。。。
お天気が良いときは、早いうちに、私たちの忠実なピンペルルといっしょに、毎日散歩に出かけ
ますが、この児はとても陽気で、私たちが二人とも家にいないときだけはとっても悲しげで、しかも
目に見えてものすごくおびえています。というのは、この児はおまえたちがいなくなってしまったので、
今度は私たちも失ってしまうのじゃないかと思っているからです。だから、私たちが舞踏会に出かけて
しまうと、あの児はミツェルルからもう離れようとはしないのです。私たちが仮面をつけているのを
見てしまったからなのです。そして私たちが戻ってくると、ものすごくうれしがるので、息でもつまりは
しないかと思うほどです。それにまた、私たちが外出していると、部屋の自分のベッドにいないで、
扉の傍の女中のところで、地面に坐ったまま眠ろうともしないのです。それどころか、私たちが
戻ってこないかと、ずっと見張っているのです。≫

この「ミュンヘンとパリ旅行」で最初にモーツァルトがザルツブルクの父レオポルトに書いた手紙
(1777年9月23日付ヴァッサーブルク発)姉ナンネルのことを愛情込めて「わがカナリア姉さん」と
呼び、他方ナンネルモーツァルトのことを「道化者」そして「ピンペルル」と愛犬名で呼んでいるのである。
≪ママと道化者が陽気で元気だって聞いて満足しています。。。ところでビンペルルは短い
前奏曲を1曲すぐにも送って下さいね。≫ (1777年9月28日ミュンヘンのモーツァルト宛)

★姉ナンネルを「カナリア姉さん」と呼んでいるのは、ナンネルはモーツァルトに言わせると「いちいちつまらないことに
すぐめそめそした」ことからこう呼んだのである。この手紙に限らず、モーツァルトとナンネルはお互いの健康を
気使いながら姉弟愛溢れる手紙の交換をしている。尚、ザルツブルクの家ではカナリアも飼っていた。

レオポルトは1778年4月13日付のパリに宛てた手紙の末尾で、次の通り愛情込めて語っている。
≪ピンペルルはとても元気です。彼はテーブルの上にあがると、一本の前足でまことにお利口さんに
センメルをひっかいて、一つもらうようにし、またナイフをひっかいて、切ってくれるようにするのです。
それにテーブルの上に嗅ぎ煙草いれが四、五個あると、スペイン煙草が入っているのをひっかき、
一本取り出してもらい、その上で彼に指をなめさせるようにさせるのです。≫
★センメル:オーストリアでは定番のパン。外はカラカラで中は柔らかいパン。

モーツァルトウィーンに移った後もこの犬を気にかけていて、1782年5月8日の父レオポルト宛の
手紙の末尾に、≪ビンペルルにスペインの嗅ぎ煙草を一服ね≫と書き添えている。

★モーツァルトは犬を題材にした楽曲は遺していないが、1782年にピンペルルコンスタンツェをとりあげたカノン
スケッチを書いている。コンスタンツェ(モーツァルトの妻、1782年8月挙式)をピンペルルに見立てその愛らしさを
称えようと考えたのであろうか。

フォックス・テリアには現在、スムースヘアーワイヤーヘアーの二種類が存在しているが、
モーツァルトがザルツブルク時代に両親と姉ナンネルと共に非常に可愛がっていたフォックス・テリア(雌)の
ビンベルル」はスムース・フォックス・テリアに近い当時の犬種であろうと思われる。

★ワイヤー・フォックス・テリアではないと思われる。この犬種は異種間交配により19世紀に誕生しており、モーツァルトの時代には
誕生していなかった。勿論、交配に使用された剛毛を持った犬はいたわけで、英国では狐を追う犬種をすべて、フォックステリアと
呼んでいた時期もあり、特定することは困難である。
★他方、愛犬はジャーマン・スピッツの中で最も小さい犬種で、ジャーマン・ツヴェルク・スピッツ(German Zwergspitz)
即ち、ポメラニアン(体高20cm前後、体重1.8〜5kg)のことだとする説もあるが特に根拠があるわけでもなさそうである。


Smooth Fox Terrier.JPG     English_Foxhound.JPG
スムース・フォックス・テリア                          フォックス・ハウンド  

★スムース・フォックス・テリア=原産地:英国、起源:18世紀、元来の役割:害獣駆除、キツネ狩、体高(雌):40cm、
体重(雌):16~23kg, 寿命:10~13歳。フォックス・ハウンドたちと一緒に貴族のスポーツとしてのキツネ狩に
使われた(穴の中に隠れているキツネを外に追い出す役割。
★フォックス・ハウンド=原産地:英国、起源:18世紀、元来の役割:キツネ狩、体高(雌):58~69cm、体重(雌);25~34kg


wired fox terrier.JPG 
ワイヤー・フォックス・テリア
原産地:英国、起源:19世紀、異種間交配により育成。

モーツァルトは結婚後のウィーン時代の約10年間にも「ガウケルル」という犬を飼っていた。その犬の
あだ名を「シャマヌツキー」と名ずけたと、1787年1月15日付でプラハから彼がウィーンの友人フォン・ジャカンに
送った手紙で語っているが、この犬の種類とかウィーンで何匹犬をかったのかなど詳細はわかっていない。

            U^ェ^U U^ェ^U U^ェ^U      U^ェ^U U^ェ^U U^ェ^U     

モーツァルトは犬を題材にした楽曲は遺していないので、つぎの2曲を聴きましょう。

1.「わがカナリア姉さん(ナンネル)の霊命の祝日(7月26日)のために20歳の弟「ピンペルル」が
  1776年7月にザルツブルクで作曲し7月25日夜に演奏されたと推測されるディヴェルティメント
  ニ長調 K.251から第5楽章 ロンドーアレグロ・アッサイ:
  ★『ハフナー・セレナード』と同時期に作曲されている。


2.モーツァルトと愛犬「ピンペルル」が、じゃれあっているかのような、多くのスタッカートを伴い、明るく、優美で、
  軽やかなクラヴィーア・ソナタ(第9番)ニ長調、K.311(284c)第一楽章、アレグロ・コン・スピーリト:

  この第9番(新全集では第8番)は1777年10月~11月頃マンハイムで作曲されているが、作曲の
  経緯はほとんど判明していない。ミュンヘンのフライジンガー(Freysinger)という家の二人の娘
  (Juliana当時22歳)と(Josepha17歳)の為に作曲したものではないかとされている。モーツァルト   
  がアウクスブルクの従妹ベーズレに手紙で次の通り語っていることを根拠としている。

  ≪。。。つまりヨゼファ嬢にちゃんとおわびをしたいのです。。。彼女に約束したソナタをまだ送って   
  いないので。。。≫ 1777年11月5日付マンハイムよりアウクスブルクのマリア・アンナ・テークラ・モーツァルト(ベーズレ)宛

  ≪。。。きみのフライジンガー嬢姉妹からの挨拶を伝えてくれて、わがいとこ嬢に大いに感謝します。
  姉さんのユリアーナ嬢はとても親切なことずてを送ってくれました。(中略)例のソナタについては
  少し忍耐で武装しなくてはなりません。。。なるべく早く書き上げ、それに手紙を書き添えましょう。≫
                  1777年12月3日マンハイムのモーツァルトよりマリア・アンナ・テークラ・モーツァルト(ベーズレ)宛


ディヴェルティメント ニ長調 K.251               クラヴィーア・ソナタ(第9番)(新全集第8番)ニ長調 
第5楽章 ロンドーアレグロ・アッサイ                 K.311(284c) 第1楽章 アレグロ・コン・スピーリト
        

          U^ェ^U U^ェ^U U^ェ^U      U^ェ^U U^ェ^U U^ェ^U     

モーツァルト犬に捧げる詩を遺している(作詞時期は不明)
雌イヌ(特に名前は記されず)に託した乙女(16歳)が始めて異性を受け入れるという内容の
詩文である。尚、この詩文は遺稿の中から見つかっている。
★ かなり長いので要所のみ。中略箇所一部にエロチックな表現あり。書簡全集の紹介文ではポルノ詩であるとしている。

芸術的な犬
犬呈詩

おおミューズの女神よ!ぼくはきみたちに感謝の贈りものを捧げたい。
ぼくを助けてくれたまえ、犬のほまれ大チビコロ君を 詩で称えたいのだ。
名犬物語は数多くあるが、これはまた世に類のない犬物語。。。。(中略)

さてそれで、犬の王様チビコロ君は ウィーンのうまれ。たがぼくには分からない、
ママのゼミールが彼を世に産み落とした月日も時間も。
慈父については、身分も名前も皆目分からない。ただオーストリアの由緒ある血統を引くとの噂。

母親ゼミールはこの世に誕生した、コロンブスが初めて発見した大陸で。
彼女は年の頃およそ16歳で すでに世界を一周していた。

水よりも爽やかで 雪よりも清らかな生粋の生娘。。。(中略)

とそこへ突然、年も頃合、中肉中背、見目うるわしく礼儀正しい雄犬一匹 彼女に向かってやってきた。
彼女は震えおののき 逃げたが ああ 神様 釘づけになった。。。(中略)

こうして彼女は寛大にも彼に敬意を表したのだ、そして堪えることで自分を鍛えることを彼に
教えたのだ。。。(中略)

そこで、美しいひとよ、あなたはあなた自身を責めなくてはいけない。
こんな魅力に出遭えば、誰だって思いきった行為にでるだろうさ!
                                             (引用:モーツァルト書簡全集)



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モーツァルト27歳・演奏会の成功とザルツブルク里帰り(ウィーン③1783年)
ピアノ・ソナタ(第13番)変ロ長調 と動物たち(1783年ザルツブルクの帰途立ち寄ったリンツ関連) 
モーツァルト28歳・演奏活動絶頂期(ウィーン④1784年)
モーツァルトと小鳥たち (クラビーア協奏曲(第17番)ト長調(K.453)第三楽章の主題を歌うムクドリモーツァルト)
父レオポルト、絶頂期のモーツァルト29歳を訪問(ウィーン⑤1785年)
モーツァルト30歳・「劇場支配人」と「フィガロの結婚」(ウィーン⑥1786年)
フィガロの結婚(その1)序曲+第一幕第一景第一曲
モーツァルト31歳・父レオポルトの死と「ドン・ジョヴァンニ」(ウィーン⑦1787年)


モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅①(マンハイム①)

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宮廷楽団(宮廷楽師長兼第一ヴァイオリン奏者)を辞職した21歳のモーツァルトは母親の
アンナ・マリア(当時56歳)と共に1777年9月23日、ザルツブルクを後にし、翌24日
ミュンヘンに到着した。ミュンヘン滞在は今回で通算5回目となる。

ザルツブルクの宮仕えから解放され嬉しさで元気一杯、前途洋洋たる思いのモーツァルトが、
レオポルトと約束した今回の旅の目的は「立派な定職をさがすこと、もしそれがうまく
ゆかなければ大きな収入のある大都会に行くこと」であった。(この目的はレオポルトがモーツァルトに
宛てた1778年2月12日付の手紙で再確認されている。)

ミュンヘンでは宮廷劇場総監督ゼーアウ伯爵などの要人経由バイエルン選帝侯マクシミリアン3世への
謁見を依頼したが遅々として進まず、ようやく9月30日になって謁見がかなったが、「生憎、空席がない
との理由で雇用の件はあっさり断られてしまった。

★選帝侯としては隣国であるザルツブルクの大司教に与えられた宮廷楽師長の職を辞したモーツァルトを即座に
雇用するわけには行かないと、大司教との友好関係をも考慮したものと思われる。又、選帝侯はイタリア音楽家偏重でもあった。

モーツァルトと母のアンナ・マリアはやむなくミュンヘンを10月11日に発ち、同日夜9時、
父レオポルトの故郷アウクスブルクに到着した。

翌日12日にクラヴィーア製作者ヨハン・アンドレアス・シュタインを訪れ、シュタイン製の
フォルテ・ピアノを試奏させてもらった。その素晴らしさにすっかり魅了されたモーツァルトは、
ザルツブルクの父レオポルト宛ての手紙(1777年10月17日付)で、シュタイン製フォルテ・ピアノ
ダンパーがずっとよくきき」、「音がいつでも一様で」、「エスケープメント」がついており、
膝ペダルも良く出来ており」このフォルテ・ピアノでソナタ6曲(ニ長調のデュルニッツ・ソナタを含む6曲)
弾くと「比較にならないほどよく響く」と絶賛しているのである。

★ヨハン・アンドレアス・シュタイン:Johann Andreas Stein (1728-92), モーツァルト一家が「西方への大旅行」の往路
アウクスブルクに立ち寄った際(1763年6月)、旅行用クラヴィーアを彼から一台購入している。「ウイーン式アクション・ピアノ
(フォルテ・ピアノ)」の案出者である。シュタイン製フォルテ・ピアノの当時の価格は一台約300フローリン。
★シュタインとは当時8歳半になる彼の自慢の娘、マリア・アンナ(愛称ナネッテ)のピアノ演奏について「演奏論」を
展開し、シュタインも殆どの点で同意するのである。その後、この娘ナネッテはウィーンでも指折りのピアノ製作者である
シュトライヒァと結婚し、二人で一流ピアノメーカーであるシュタイン社を創設し、ベートーヴェンも同社のピアノを愛用するのである。
★ソナタ6曲:1775年ミュンヘンで作曲した6曲のクラヴィーア・ソナタ:第1番ハ長調(K.279/189d)、第2番ヘ長調(K.280/189e)、
第3番変ロ長調(K.281/189f)、第4番変ホ長調(K.282/189g)、第5番ト長調(K.283/289h)、第6番二長調(K.284/205b)『デュルニッツ』 

アウクスブルクには宮廷はなく就職活動はしていないが、伯父の家を訪問し、そこで2歳年少の従妹で
当時19歳のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと出会い、たちまち意気投合し、モーツァルトは
彼女を「ベーズレ(小さな従妹ちゃん)」と呼び、父宛の10月17日の手紙に「ぼくらのベーズレは、
美しくて、賢く、愛らしくて、如才がなく陽気です。本当にぼくら二人はすっかり気が合っています。
その上彼女は少しばかりお茶目さんです。ぼくらはみんなを二人してからかっては楽しんでいます。
と報告している。

天真爛漫、おどけてふざけるのが大好きなモーツァルトは恰好の相棒を見つけ、駄洒落、語呂合わせ、
悪口、それにお尻とかウ●コとかオナラとかスカトロジーもおりまぜ二人は大いにふざけて楽しんだのである。
アウクスブルクをあとにしてからもモーツァルトは旅先から、陽気な糞尿譚的(スカトロジー)書簡を
ベーズレに書き送るのである。(これら書簡が「ベーズレ書簡」と呼ばれている。)

★ベーズレ書簡:18世紀当時極めて親しい間柄にある者同士ではスカトロジーを冗談の種にして笑い転げるといった
習慣があったことより、モーツァルトのスカトロジー書簡をもって下品であるとか人格を疑うとかの批判は適切ではなく、
当時の風俗習慣、現代との常識の相違なども十分考慮する必要がある。モーツァルトがウィーン時代に書いた
カノンにもスカトロジーが表現されるが、モーツァルトの天真爛漫さの表れとして受け止めるべきであろう。

宮廷もなく就職活動も出来ないアウクスブルクに腰を落ち着けるわけには行かない。
モーツァルト母子は10月26日にアウクスブルクを発ち、10月30日に今回の旅の最大の目的地である
マンハイムに到着した。

ライン川ネッカー川が合流する交通の要所として栄えたマンハイムブファルツ選帝侯
カール・テオドールの宮廷所在地である。マンハイム宮廷楽団は当時ヨーロッパ随一との評判であった。
モーツァルトは1777年11月4日付の父レオポルト宛の手紙に「オーケストラは実に素晴らしく、
強力です。左右両側にヴァイオリン10ないし11、ヴィオラ4、オーボエ2、フルート2にクラリネット2、
ホルン2、チェロ4、ファゴット4にコントラバス4、それにトランペットとティンパニです。それで快い
演奏をやります」と語り、すっかり魅了されているのである。
宮廷楽団を中心にオペラ、バレエ、演劇が盛んに上演されており、ここマンハイムの宮廷は
モーツァルトにとってはまさに理想郷、最善の就職先であったと言えよう。

モーツァルトはマンハイム到着後、すぐに宮廷楽団の器楽音楽監督のクリスティアン・カンナビヒ
楽長イグナツ・ホルツバウアー(1711-1783)といったマンハイム楽派の指導者たちに会いに行き、
宮廷音楽総監督ルイ・アウレル・ザヴィオーリ伯爵を紹介された。これが奏功し、祝賀行事の
一環として11月6日に催された大音楽会で、クラヴィーア協奏曲とソナタの演奏を披露し、
選帝侯から直接、お褒めの言葉をもらうことができた。

★クリスティアン・カンナビヒ:Christian Cannabich, 1731- 1798マンハイム生まれ。マンハイム楽派の創設者(宮廷楽団楽長)である
ヨハン・シュターミッツ(1717-57)に師事。15歳の時にマンハイムの宮廷楽団に入団。22歳でローマに留学、ヨメルリ(Niccolò Jommelli,
1714-74)に学んだとされている。シュターミッツの後任楽長を経て音楽監督。

他方、モーツァルトは、才能ある駆け出しソプラノ歌手にすっかり心を奪われる。
彼女の名はアロイジア・ヴェーバー。マンハイムの宮廷でバス歌手並びに写譜係として
生計を立てていたフランツ・フリードリン・ヴェーバーの次女、16歳である。

★アロイジア・ヴェーバー:フランツ・フリードリン・ヴェーバー(1760頃-1839)の4人の娘の次女で駆lけ出し歌手として、
すでに宮廷で歌い、選帝侯にも気に入られていた。「魔弾の射手」の作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバー
(1786-1826)はフリードリン・ヴェーバーの甥にあたり、アロイジアとはいとこ同士という関係になる。


Marianne_Thekla_Mozart.jpg     AloysiaWeber.jpg       
マリア・アンナ・テークラ・モーツアルト(1758 - 1841)         アロイジア・ヴェーバー(1760-1830)
愛称:ベーズレ             鉛筆画


モーツァルトアロイジアに声楽やピアノの指導をするとともに、彼女のためにレチタティーボとアリア
アルカンドロよ、私は告白するー私は知らぬ、このやさしい愛情がどこからやってくるのか?
(K.294)を作曲するのである。

★このアリアは1778年3月12日マンハイム出発を2日後に控えたモーツァルトのための送別演奏会がカンナビヒ邸で催された際、
アロイジアによって披露された。彼女はオペラ「牧人の王」(K.208)のアリア≪穏やかな空気と晴れた日々≫なども歌っている。

アロイジア以外にもモーツァルトはマンハイムの選帝侯の家族や同地で親しくなった貴族や名家
の女性そして宮廷音楽家の娘などに次の様な楽曲を作曲したのである。

①≪ロンド≫(K.284f):この曲は散逸したが、選帝侯の娘カロリーネ・ルイーゼのために作曲した。

クラヴィーア・ソナタ:ハ長調(K.309/284b):
  マンハイム宮廷器楽音楽監督であるクリスティアン・カンナビヒの「とても愛らしくクラヴィーアを
  弾く娘さん」(この様にモーツァルトは父に手紙で語っている)の当時15歳のローザのために書かれた。
  ★第二楽章アンダンテはローザ嬢の性格描写なのである。

クラヴィーア・ソナタ二長調(K.311/284c):
  フライジンガー(Freysinger)という家の二人の娘(Juliana 22歳)とJosepha(17歳)のために
  作曲されたと考えられている。詳細と音源については「犬とモーツァルト」ご参照。

5曲のヴァイオリン・ソナタ:ハ長調(K296), ト長調(K.301/293a)、変ホ長調(K.302/293b), 
  ハ長調(K.303/293c),ホ長調(K.304/300c)
  ★この最後の曲(K.304)はマンハイムで着手され、パリで完成した可能性もある。
  ★K301、K302,K303、K.304はパリで作曲するイ長調(K.305/293d)、二長調(K.306/300i)の2曲を加えパリで「作品 I 」として
  シベール社から出版するのである。パリよりの帰路再度立ち寄るミュンヘンで、バイエルン選帝侯に就任したばかりの
  カール・テォドールの妃エリザベト・マリアの許に参上し、この「作品 I 」を献呈することになる。
  ★ヴァイオリン・ソナタハ長調(K.296)はモーツァルトと母がマンハイム滞在中寄宿した宮中顧問官
  ゼーラリウスの当時15歳の娘、テレーザ・ピエロンに与えた。この娘にモーツァルトはクラヴィーアを
  教えている。モーツァルトはピエロン嬢のことを「僕たちのところの女の精」と評し、その可憐さを
  称えている。
  尚、このソナタK.296は「作品 I 」には入れず、1781年11月ウィーンにて 「作品 II 」の第2番として
  出版されるのである。尚、「作品 II 」はウィーンにおけるクラヴィーアの女性弟子ヨーゼファ・アウエルンハンマー
  (Josepha Auernhammer 1758-1820)に献呈された。内容はK.296とK.376~380の6曲で「アウエルンハンマー・ソナタ」の
  愛称で親しまれている。

二曲のフランス語歌曲:アリエット≪鳥たちよ、毎年≫(K.307/284d)と≪さびしく暗い森で
  (K.308/295b);
  宮廷楽団フルート奏者ヨハン・バブティスト・ヴェンドリング(1723-1797)とマンハイムの宮廷歌手で
  あった妻ド ロテアの娘エリーザベト・アウグステ(愛称グストゥル)のために書かれた。


レチタティーヴォとコンサート・アリア
アルカンドロよ、私は知らぬ、
このやさしい愛情がどこからやってくるのか?≫K.294         アリエット≪鳥たちよ、毎年≫(K.307/284d)
”Alcandro, lo confesso...Non sò, d'onde viene''          Oiseaux, si tous les ans
ナタリー・デセイ Natalie Dessay                     チェチーリア・バルトリ Cecilia Bartoli 
     
ピエートロ・メタスタージョの『オリンピアーデ』              鳥たちよ、毎年冬には去ってゆく。
第3幕第6場より                           一年中恋ができる様に花の季節を
                                   探しに行くのだ。

ヴァイオリン・ソナタ ハ長調 K.296                ピアノ・ソナタ ハ長調 K.309(284b)
第二楽章 アンダンテ・ソステヌート                   第一楽章 アレグロ・コン・スピーリト
                                    クリストフ・エッシェンバッハ Christoph Eschenbach
              
     
筆譜のタイトル:テレーゼ・「ピエロン」のために。
ピアノ:オイゲン・ダルベール(Eugen d'Albert (1864 -1932年)         
ヴァイオリン:Andreas Weissgerber
1923年録音                                


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モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅②(マンハイム②)

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マンハイムの宮廷器楽音楽監督のカンナビヒを中心として宮廷楽団関係者と連日交流を深めていた
モーツァルトは、ザルツブルクにいる最愛の父レオポルトの霊名の祝日と誕生日(11月15日で58歳)
に際し、1777年11月8日の手紙で次の様に語りかけるのである。

≪最愛のお父さん!ぼくは詩的なものを書けません。詩人ではありませんから。ぼくは表現を
巧みに描きわけて影や光を生み出すことはできません。画家ではないからです。そればかりか
ぼくは、ほのめかしや身ぶりでぼくの感情や考えを表すこともできません。ぼくは踊り手では
ありませんから。でも、音でならそれができます。ぼくは音楽家ですから。
そこで、明日はカンナビヒ邸で、お父さんの霊名の祝日と誕生日を祝って、
クラヴィーアを弾きましょう。≫

マンハイムの宮廷楽団はモーツァルトにとっては理想郷であり、最高の就職先であったのだが
就職活動は遅々として進まず、選帝侯との間をとりもってくれていたザヴィオーリ伯爵の答えは
いつでも「肩をすくめること」でしかなかったのである。

ザルツブルクでやきもきしていた父レオポルトも1777年11月13日付の手紙でパリに移動する様に
とのアドバイスを開始したが、モーツァルトはなんとか就職の糸口を見出さんとマンハイムに留まって
いた。 しかし、12月8日になってザヴィオーリ伯爵より、選帝侯としてはモーツァルトの採用は見合す旨の
回答が伝えられたのである。

更に、これに追い討ちをかける事態が起こった。1777年12月30日にミュンヘンのバイエルン選帝侯
マクシミリアン3世ヨーゼフが死去し、マンハイムのブファルツ選帝侯カール・テオドール
バイエルン候を兼ねることが布告され、1778年1月1日にテオドールミュンヘンに出発し、
これに伴い、宮廷楽団団員の希望者もミュンヘンに移動することになった。かくして名声を博した
マンハイム宮廷楽団はその歴史を閉じることになったのである。

★かねてからバイエルン併合をねらっていたオーストリア・ハプスブルク家のヨーゼフ2世はバイエルン選帝侯マクシミリアン3世の
死去に乗じ、1778年1月には下バイエルンに兵を駐屯させ、バイエルン継承戦争(~79年5月。俗に言う「じゃがいも戦争」)を
起こしたが、プロイセンの介入で失敗している。この辺のオーストリア軍やプロイセンあるいはロシア、フランスなどの動きについて
レオポルトはモーツァルトとアンナ・マリアに手紙でしばしば連絡している。

宮廷が実質上ミュンヘンに移動したのでこれ以上ミュンヘンに留まる理由はなくなったのであるが、
アロイジアを愛しているモーツァルトは1月17日付の父レオポルトへの手紙で初めてアロイジア
登場させ、「まったくすばらしく歌をうたう」「美しい澄んだ声をしている」「やっと16歳になった
ばかりである」「彼女に不足しているのは演技力だけである」「デ・アミーチスのためのおそろしく
むつかしいパッセージがいくつもあるアリアを見事に歌う」「伴奏もまったくうまく小曲ならけっこう
弾くことが出来る」「父親は真っ正直なドイツ人」であるなどと語り始めるのである。

★アリア:「第3回イタリア旅行」でミラノで初演した「ルーチョ・シッラ」のプリマ・ドンナ(ジューニア役)のデ・アミーチス夫人(ソプラノ)
が歌ったアリアのことで、「ああ、いとしいひとのおそろしい危険を思うと」”Ah se il crudel periglio del caro bel rammento”。

1月27日に22歳を迎えたモーツァルトは、アロイジアを溺愛し、彼女との結婚を望み、彼女と
その一家と共にイタリアに行き彼女を一流のソプラノにすることで苦境にあるアロイジアの
家族をも救いたいと「愛の夢物語」を父レオポルトに対し綴るのである。(1778年2月4日付書簡)

これに愕然とし激怒したレオポルトは徹夜でモーツァルト宛の手紙をしたため、直ちにパリに赴く様に
指示するのである。(1778年2月12日付書簡、ザルツブルク発)
≪。。。おまえが平々凡々たる音楽家として世間から忘れられてしまうか、それとも有名な楽長として、
後世の人たちにまでも書物のなかで読んでもらえるようになるか、女にうつつを抜かして、子供を
いっぱいかかえて貧乏し、小部屋の藁布団に逼塞しているか、それとも、キリスト教徒として喜びや
名誉や名声にあふれた生涯を送ったあと、おまえの家族のためには万事を整え、世間からは尊敬を
受けて死んでゆくかは、ひたすらおまえの理性と生き方とにかかっているのです。。。
おまえはパリに発つのです!しかもすぐにも。偉大な人たちの傍に身を置いてみるのです。。。
パリからこそ、大きな才能を備えた人物の名声と声価が世界中を通して広まっていくのです。。。≫
                                                     モーツァルト書簡全集


Ehrenhof_des_Mannheimer_Schlosses-1.JPG
マンハイム宮殿(独:Mannheimer Schloss)

★マンハイム宮殿はプファルツ選帝侯の宮廷であった。1720年から1760年に建設された宮殿は、
ヴェルサイユ宮殿に次いでヨーロッパで2番目に大きなバロック建築であった。第二次世界大戦で完全に
破壊された後、簡略化された形で再建された。

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マンハイム滞在中、モーツァルトは宮廷器楽音楽監督のクリスティアン・カンナビヒ邸に
毎日のように出向き、宮廷楽団員と交友をもったのであるが、非常に親しくなったオーボエ奏者
フリードリヒ・ラムにはオーボエ協奏曲K.314(285d)の楽譜を贈り狂喜させている。

同じ様に親しくなったフルート奏者ヨハン・ヴェンドリングからはフェルディナント・ドジャンという
オランダ人医師でアマチュア音楽家を紹介され、この医師よりフルート協奏曲フルート四重奏曲
作曲依頼を受け、次の作品を仕上げたのである。
フルート協奏曲(第1番)K.313(285a)。
②前述のオーボエ協奏曲K.314(285d)をフルート用に編曲(第2番)。
フルート四重奏曲二長調K..285。
フルートとオーケストラのためのアンダンテK.315/285e

★原曲のオーボエ協奏曲K.314はマンハイム・パリ旅行以前にザルツブルクで書かれたとされている。
★フルート楽曲の依頼者であるドジャンからは曲数が少ないということで約束の半額以下の金額しか貰えなかった。
約束を守らなかったことで父レオポルトから叱責され、「気に入らない楽器(フルート)故に気が乗らなかった。」と
説明しているが、多分にこれは言い訳けであり、確かに当時のフルートは音程が狂いやすかったらしいが、これをもって
「モーツァルトはフルートが嫌い」との説が一人歩きした感がある。すべてのフルート曲が名曲ぞろいであることから、
果たして本当にフルートが嫌いであったのかとの疑問が生ずるのである。

テノール歌手アントン・ラーフのためにコンサート・アリア≪もし私の唇を信じないのなら
Se al labbro mio non credi"≫K.295を作曲している。

★アントン・ラーフ:Anton Raaf(1714-97)は1781年ミュンヘンで初演したモーツァルトのオペラ 「イドメネオ」で
タイトルロールを歌うことになる。

ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 K.304(300c)の作曲を手がけたのもミュンヘン滞在中であると
されている(完成はパリ)。


ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 K.304(300c)            フルート四重奏曲 二長調 K.285
第一楽章 アレグロ                          第二楽章 アダージョ                           
                                   ホリー・クック Holly Cook(フルート)

     
ヴァイオリン・ソナタ中、唯一の短調曲。「作品 I 」の第4番        弦のピッツィカートの伴奏でフルートの独奏が美しい。    
マンハイムで着手され、パリで完成されたと考えられている。       


フルート協奏曲 (第1番) ト長調  K.313             オーボエ協奏曲 ハ長調(K.314/285d)
第一楽章 アレグロ・マエストーソ                    第三楽章 ロンドー アレグロ
エマニュエル・パユ Emmanuel Pahud               カルロ・ロマーノ Carlo Romano
     
                                  モーツァルトの唯一の完成されたオーボエ協奏曲。       
                                  第3楽章の第1主題は、ジングシュピール「後宮からの誘拐
                                  K.384 第2幕のブロンデ(S)のアリア「何というよろこび」   
                                  "Welche Wonne, welche Lust"の旋律と酷似している。

★モーツァルトは今回の旅行に出発する前ザルツブルクで作曲したオーボエ協奏曲 ハ長調をフルート用に長2度高く
移調しフルート用に編曲、フルート協奏曲第2番二長調としたのである。尚、オーボエ協奏曲はザルツブルク宮廷楽団の
オーボエ奏者フェルレンディスのために書かれた「フェルレンディス協奏曲」である可能性が強い。
★フルート協奏曲第2番 ニ長調 K. 314はこちら(NAXOS Music Library)で全楽章(I.Allegro aperto, 
II.Andante ma non tropo, III.Allegro)試聴出来ます。                            

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モーツァルトは父親の説得をしぶしぶ受け入れパリに発つことを決断するのであった。
ザルツブルクより乗ってきた自家用馬車を馬車屋に40フロリンで売却する話もつき、
同じ馬車屋が11ルイ・ドール(121フロリン)で同じ馬車でパリまで運んでくれることに
なったのである。(即ちパリまでの2人分の運賃は自家用馬車を渡して81フローリンを払えば良くなったということ。)

出発の2日前の3月12日にカンナビヒ邸でおわかれの音楽会が開かれ、≪3台のクラヴィーアの
ための協奏曲≫(第4番)へ長調ロードロン協奏曲」K.242がモーツァルトの3人の美しい女弟子に
よって演奏された。第1クラヴィーアをローザ・カンナビヒ、第2クラヴィーアを最愛のアロイジア・
ヴェーバー、第3クラヴィーアをモーツァルトが「我々の家の妖精」と呼んでいた当時15歳の可憐な
テレーゼ・ピエロンが受け持ったのである。

★アロイジア・ヴェーバーはモーツァルトから贈られたレチタティーヴォとアリア≪アルカンドロよ、私は告白する、
このやさしい愛情がどこからやってくるのか≫K.294とオペラ≪牧人の王≫K.208のアリア≪穏やかな空気と
晴れた日々≫を歌ったのである。

出発の前日13日にモーツァルトはヴェーバー一家に別れを告げたのであるが、アロイジア
モーツァルトに彼女自身が編んだレースの袖口飾りを2組贈り、アロイジアの父フリードリン・
ヴェーバーモリエールの喜劇全集のドイツ語版を贈り、涙の別れとなったのである。
 
就職活動は不首尾に終わったが、当時のヨーロッパ随一とされた宮廷音楽家とほぼ半年間交流し
音楽的には極めて有意義であったマンハイムを発ちパリに向かうのである。
1778年3月14日、馬車で旅立つ22歳のモーツァルトと母アンナ・マリア(57歳)の姿があった。



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モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅③(パリ)

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モーツァルト(22歳)母アンナ・マリア(57歳)は1778年3月14日にマンハイムを発ち、
9日後の23日にパリに到着した。

西方大旅行」でパリを訪問した時、拝謁、御前演奏をしたのはルイ15世であったが、
パリは今やルイ16世の時代になっていた。ルイ16世のモーツァルトが6歳の時、ウィーン
シェーンブルン宮殿で「僕と結婚しよう」と言ったとされている1歳年長のマリア・アントニア
フランス王妃(仏名:マリー・アントワネット)であったが、今回の青年モーツァルトの約6ヶ月のパリ
滞在中に謁見する機会はなかった。

ザルツブルクの父レオポルトは、「西方大旅行」でパリ滞在時非常に世話になった
グリム男爵に、息子をよろしくとの書簡を発信していたが、同男爵は7歳のモーツァルトの
才能には夢中になったが、22歳になったモーツァルトには特に珍しさ、新しさを感じないのか、
かなり冷淡な態度を示した。もっとも当時パリは財政状態が悪化し、グリム男爵のような貴族
でも「30年来の生活苦」に喘いでおり、音楽どころではなかったということも考えられる。
★グリムは、「フランス・オペラ」と「イタリア・オペラ」の優劣をめぐる論争(いわゆる「グルック=ピッチンニ論争」)でパリの聴衆が
二派に分裂しており、その狭間でモーツァルトが成功するのは非常に難しいとも判断していたのである。
(1778年7月27日付グリムよりレオポルト宛書簡)

パリでの就職活動もそんな簡単なものではなかった。唯一もたらされた就職口はヴェルサイユ宮殿
オルガン奏者の職であったが、ザルツブルクの父レオポルトには「年俸は少ないし、一年の半分も
束縛され、パリで活躍も出来ない」と説明し、この職を断ってしまうのである。

モーツァルトがパリで最高の喜びを得たのは6月18日、コンセール・スピリチュエルが催した
チュイルリー宮のスイスの間で交響曲ニ長調「パリ」K.297が演奏され、大喝采を博した時である。
≪。。。僕はもううれしくって、シンフォニーが終わるとすぐにパレ・ロワイヤルに行って、おいしい
アイスクリームを食べ、願をかけていたロザリオの祈りを唱えて、家へ帰りました。。。≫
★しかしこの喜びは後述するごとく父や姉の心配と悲しみを少しでも和らげる為に語ることになるのである。

モーツァルトの母アンナ・マリアはパリに到着後、過酷な旅がこたえたのであろう体調を崩していた。
知人も限られており、薄暗い宿の一室でモーツァルトの帰りを待つ寂しい生活に耐えていた。彼女は
パリで早くモーツァルトが成功し、レオポルトとナンネルがすぐにもパリに来て家族みんなが
一緒に生活出来る様になること≫を神に祈り、ただひたすら寂しさに耐えていたのである。

アンナ・マリアは1778年6月12日ザルツブルクの夫レオポルトに語りかけた。
≪いとしいかた。。。あなたがたがお元気なことを知ってうれしいです。
私もヴォルフガングもおかげさまで元気です。きのう私、瀉血をしてもらいましたので、
今日はあまりたくさん書けません。。。(中略)
ごきげんよう。お二人ともお元気で。あなたがたに幾千回もキスし、あなたの忠実な妻の
モツァルティーンです。もう終わりにします。腕と眼が痛むのです。≫

この手紙がアンナ・マリアがザルツブルクの夫と娘のナンネルに書いた最後の手紙となった。
6月19日病床に伏した彼女は様態が悪化し、意識不明のまま1778年7月3日夜の10時21分
最愛の息子に看取られ57歳でこの世を去ったのである。アンナ・マリアは最後の時を迎えるに際し、
うわごとを言っていたが、モーツァルトが成功し、家族みんなが一同に会し得た喜びを
語っていたのであろうか。。。

★アンナ・マリアは体調が弱っていたにも拘わらず、瀉血(血を抜くこと)療法を受けたのである。当時この瀉血は
一般に広く行われており、かなり大量の血を抜きそれによって造血作用を促すという現代医学では考えられない
治療であった。おそらくこの瀉血療法が致命的となったと思われる。

モーツァルトは最愛の母を亡くした3日夜半から4日にかけて、自分も母と一緒に死んでしまいたいほどの
悲しみをこらえながら父と姉ナンネルに手紙をしたためるのである。
その手紙にはすでに母が亡くなったことは伏せ、まず「重態である」と記した上で、「交響曲パリ
の成功の模様を語り、そして末尾にはこう語るのである。≪では、ごきげんよう。。。愛するお母さんは
全能の神の御手の中にあります。もしぼくが望むように、なお余命を与えてくだささるなら、神の
恩寵に感謝しましょう。でも、みもとに召されるなら、ぼくらの不安や、絶望はすべて無用です。
神のなさることに理由がないわけはないのですから。。。≫
まずは父と姉に母の死に対する心構えをさせようとするのである。

この手紙のすぐあと、4日の朝2時頃にザルツブルクの親友ブリンガー牧師に「ぼくの母はもういない!
神にめされたのだ。」と母が亡くなったことを告げ、「父と姉には重体であるとしか連絡しておらず、
両人に心構えをさせて欲しい。」と依頼するのである。

★ザルツブルクでモーツァルトよりの「母が重態である」との手紙を受け取った父レオポルトとナンネルは母が既に
この世を去ったことを感知するのである。その夜レオポルトを訪問したブリンガー牧師より真実を告げられたのである。
★モーツァルトが母の死をレオポルトとナンネルに伝えたのは母の死から6日が経過した7月9日付の手紙であった。

妻もこの世を去り、パリでの就職も旨く行きそうにないと判断したレオポルトはモーツァルトを早急に
ザルツブルクに帰郷させ再度宮廷楽団で働ける様大司教に懇願し、モーツァルト帰郷後は
宮廷オルガン奏者に任命するとの内諾を得たのである(1777年よりオルガン奏者に空席があった)

レオポルトはパリのモーツァルトに帰郷を指示し、あの手この手で帰郷を促すのである。
モーツァルトは当初躊躇していたが、父の執拗な説得にある面根負けし、パリを去ることを
受け入れたのである。グリム男爵としては厄介払いが出来るとの気持ちが大きかったのであろう
早急に馬車の手配をし、モーツァルトを半ば強制的に駅馬車に乗せたのである。


Tuileries.jpg
『パリのチュイルリー宮』 1778年6月18日、スイスの間でモーツァルトの交響曲ニ長調「パリ」K.297が演奏され、
大成功を収めた。この宮殿は1564年カトリーヌ・ドゥ・メディシスの命で建設が開始され1572年王妃の命で中断、 
アンリ4世が1608年に完成させた。宮殿は1871年5月、パリ・コミューヌにより焼失した。 


約6ヶ月程の滞在となったパリでモーツァルトは次の様な作品を仕上げたのである。
★これらの作品の他、コンセール・スピリチュエルのために「フルート、オーボエ、ホルン、ファゴットのための
協奏交響曲K.Anh.9(297B)を書いたが、上演されないまま楽譜も失われてしまうという事態もあった。

パントマイム≪レ・プチ・リアン≫のためのバレー音楽 K.Anh.10(299b):
  旧知のオペラ座の振付師、ジャン・ジョルジュ・ノヴェールの依頼により作曲。このバレエは、ピッチーニの
  『偽りの双子の娘”Le finte gemelle"』の幕間に上演された。尚、モーツァルトはノヴェールの娘のヴィクトワール・ジュナミー
  Victoire Jenamyのために≪クラヴィーア協奏曲(第9番)変ホ長調≫(K.271)を今回の求職の旅に出る前(21歳の時)に作曲している。

交響曲 二長調 (第31番) ≪パリ≫K.297:
  この頃のパリではオーケストラの迫力ある多彩な響きに人気があり、モーツァルトが大編成オーケストラと管楽器パートを
  念頭において作曲した華麗な大交響曲である。初演時のオーケストラは57名であったとされている。
  .
フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K.299
  旧知のグリム男爵の紹介でド・ギーヌ侯爵と知り合い、その令嬢に作曲を教えた。ド・ギーヌ侯爵は「たぐいまれな
  フルートの名手」であった。令嬢は「ハープを見事に弾いた」(1778年5月14日付)のである。この侯爵の依頼をうけて
  K.299を作曲した。

ヴァイオリン・ソナタ 二長調 K.306(300I)
  「作品 I 」の第6番。曲集中の唯一の3楽章作品。(I:アレグロ・コン・スピーリト、II:アンダンテ・カンタービレ、III:アレグレット)

クラヴィーア・ソナタ イ短調 K.310
  作曲時期は1778年の初夏であろうとされている。 
  第8番であり、新全集では第9番である。「仮借ない暗黒に満ち」た「本当に悲劇的なソナタ」(アインシュタイン)とも評される
  この曲は母の死(7月3日)を反映した作品であるとしばしば解釈される。フォルテ・ピアノの精華ともいうべき作品である。

⑥マンハイムで手がけたヴァイオリン・ソナタ ホ短調 K.304を完成させている。

レチタティーヴォとアリア(シェーナ)≪テッサーリアの民よ/不滅の神々よ、私は求めはしない≫
  'Popoli di Tessaglia...Io non chiedo,eterni Dei" (K.316)K.316
  アロイジア・ヴェーバーに贈るためにパリで書き始め、1779年1月8日ミュンヘンで完成。
  ★ラニエーリ・デ・カルザビージ(Ranieri de Calzabigi 1714~95)の『アルチェステ Alceste』第1幕第2場より。
  ★このアリアでモーツァルトは一番高い声 High Gを使っている。因みにモーツァルトが使った二番目に高い声は≪魔笛≫
  第二幕の夜の女王のアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」”Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen” の
  High F である。
  ★アリア「不滅の神々よ、私は求めはしない」:Io non chiedo, eterni Dei/tutto il ciel per me sereno/ma il mio
  duol consoli almeno/qualche raggio di pieta./Non comprende i mali miei/ne il terror, che empie il petto/
  chi di moglie il vivo affetto/chi di madre il cor non ha.不滅の神々よ,私は求めはしない、/空がすべて私のために
  晴れよとは。/だけど、せめて、この苦しみを/いくらかの憐みの光が慰めてくれますよう。/私の不幸は解らないでしょう、/
  私の胸にいっぱいの恐怖もまた/妻としての深い愛情を知らぬ者や/母の心を持たぬ者には。


フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K.299         交響曲 二長調(第31番)≪パリ≫K.297
第2楽章 アンダンティーノ                       第一楽章アレグロ・アッサイ
          
                                 フライブルク・バロック管弦楽団 Freiburger Barockorcheste                                          指揮:ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ Gottfried von der Goltz



クラヴィーア・ソナタ イ短調 K.310              レチタティーヴォとアリア(シェーナ)≪テッサーリアの民よ
第一楽章アレグロ・マエストソ                     不滅の神々よ、私は求めはしない≫K.316
スヴャトスラフ・リヒテル Sviatoslav Richter            ナタリー・デセイ Natalie Dessay
                                                    パリで書き始め、1779年1月8日ミュンヘンにて完成。

         ★★★★★         ★★★★★         ★★★★★

1778年9月16日パリを発ったモーツァルトはまっすぐミュンヘン経由ザルツブルクには向かわず、
まず、マンハイムに立ち寄り、その後ミュンヘンに向かうのである。ミュンヘンでは愛する
アロイジアとその一家を訪問したのであるが、アロイジアは冷たくモーツァルトに接し、
初めての失恋を経験するのである。モーツァルトは1時間ほど泣き続けたという。

★当時18歳のアロイジアはミュンヘンのドイツ劇場との専属契約を600フローリンで調印し、父親も400フローリンでミュンヘンの
宮廷楽団に勤めることになり一家がミュンヘンに移住していた。父親はモーツァルトの能力を評価し、好感を抱いていたことより、
恐らく母親がアロイジアに定職のないモーツァルトを相手にするなと諭したのではないかとも思われる。

父レオポルトと姉のナンネルに会えるのは非常に嬉しいが、またもやあの大司教のもとで
宮廷楽団勤務が始まるのかと考えると憂鬱になるモーツァルトは結局ミュンヘンで越年し
アウクスブルクから呼び寄せた従妹のベーズレとミュンヘンで過ごした上で1779年1月15日
やっとザルツブルクに帰郷したのである。1777年9月にザルツブルクを発ってから約1年と
4ヶ月が経過していた。従妹のベーズレことマリア・アンナ・テークラはモーツァルトの願いに
応じ、ザルツブルクを訪問し、約2ヶ月程モーツァルトの家に逗留したのである。



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ザルツブルクのモーツァルト23歳(1779年)

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23回目の誕生日をあと12日で迎えんとする1779年1月15日マンハイムとパリ求職の旅より
ザルツブルクに戻ったモーツアルトは1777年12月22日に急死したアドゥルガッサーの後任として年俸
450フローリンで宮廷オルガン奏者に任命されたのであるが、任命されるには辞令交付請願書
大司教に提出する必要があった。(請願書提出後は直ちに、1月7日付で辞令が交付されている。)

  高貴にして慈悲深き大司教猊下!
  神聖ローマ帝国の領主大司教猊下!
  国王にしてご主君様!

  猊下におかせられましては、カイエターン・アドゥルガッサーの逝去後、かたじけなくも、小生を
猊下の楽員としてお取立て下さいました。したがいまして、小生を猊下の宮廷オルガン奏者として
御発令下さいますよう、まことに恐れながらお願いもうしあげます

                                     ヴォルフガング・アマデー・モーツァルト

★アントン・カイエターン・アドゥルガッサー:Anton Cajetan Adlgasser 1729-77年12月22日。オルガン奏者にして
すぐれた対位法作曲家であり、モーツァルト一家とは家族ぐるみの付き合いであった。アドゥルガッサーの年俸は
450フローリンであったので、大司教はその年俸をそのままモーツァルトに支給することにしたのである。

この辞令交付請願書は署名にいたるまですべて父レオポルトによって書かれている。レオポルト
としてもさすがにこの請願書をモーツァルトに書かせるのは酷であり、無理強いすると「宮廷には
雇用してもらわなくて結構」としてやっと連れ戻したザルツブルクを飛び出して行きかねないと
考えたものであろう。又、レオポルトは、大司教がかなり柔軟性を示し、モーツァルトの要望を
受け入れたとのニュアンスの説明の手紙をモーツァルトに出していたことにもよるであろう。

レオポルトが上記の通り考えざるを得ないほどモーツァルトは大司教、宮廷楽団、ザルツブルクを
嫌っていたのであるが、その理由はモーツァルトのいくつかの手紙から把握することが出来る。

ザルツブルクの父レオポルト宛て(パリ、1778年7月9日)
≪。。。ああ、もし楽団(注:ザルツブルクの楽団のこと)がマンハイムののように人選されていたらなあ!
(中略)あの楽団(注:マンハイム宮廷楽団)では、服従が絶対です!カンナビヒが絶対権をにぎっていて、
あそこではすべてが真剣に行われています。(中略)礼儀作法を心得、みだしなみがよく、
居酒屋へ行っても大酒をくらったりしません。しかし、ザルツブルクではそうはいきません。
君主がお父さんかぼくを信頼して、ぼくらにあらゆる権力を与えてくれたら別ですが。常に楽団には
権力が必要不可欠です。≫

ザルツブルクの親友ヨーゼフ・ブリンガー師宛(パリ、1778年8月7日)
≪。。。最愛の友よ、僕にとってどんなにザルツブルクが嫌悪すべきところか、あなたにはおわかり
でしょう!(中略)ザルツブルクはぼくの才能に向いた土地ではない!第一に、音楽にかかわる人
たちがまったく尊敬されていないこと。第二に、なにも聴くものがありません。劇場もなければ、
オペラハウスもありません!もし本当にオペラを上演しようとしても、一体だれが歌えるのでしょうか?
この5,6年間、ザルツブルクの管弦楽団はいつも無用の長物、余計な連中でいっぱいでした。。。≫
★1775年ザルツブルクに宮廷劇場が誕生しているが、その公演は旅回りの劇団(シカネーダーやベーム一座など)に委ねられた為、
モーツァルトなど地元の作曲家たちの出番はなかった。詳細は「ザルツブルクのモーツァルト19歳(1775年)」ご参照。

ザルツブルクの父レオポルト宛(マンハイム、1778年11月12日付)
≪。。。大司教がもしかするとぼくが戻らないのではないかと案じ、もっとよい給料を与えようと決心する
ように、大いに、強く話して下さい。(中略)大司教はぼくをザルツブルクの奴隷とするのに、どんなに
支払っても充分ということはありえません!あなたにあえると思うとよろこびにあふれるのを感じます。
しかし、あの乞食宮廷にふたたび仕えるかと思うと、まったく腹立たしさと不安を感じます。大司教が
ぼくに対して、以前やっていたような、偉ぶった態度を演じようとすることは許されません。奴の鼻を
明かすことだって、なきにしもあらず!たやすいことですよ。そして、あなたもぼくのよろこびを分かち
合ってくれると確信しています。≫

父レオポルト宛(マンハイム、1778年12月3日付)
≪。。。ああ!ぼくらもクラリネットを持てたらなあ!シンフォニーが、フルートとオーボエとクラリネットを
伴ったらどんなにすばらしい効果をあげるか、ご想像になれないでしょう。ぼくは大司教との最初の
謁見で、たくさんの新情報を伝え、多分なんらかの提案もしてみるつもりです。ああ、大司教が望み
さえすれば、ぼくたちのところの楽団は見違えるほど洗練され、よりよくなるでしょうに。。。≫

父レオポルト宛(ミュンヘン、1779年1月8日)
≪最愛のお父さん、あなたが以前よりもぼくを理解してくれていることがわかったので、
(ザルツブルクではなくて)あなたのもとにかえるのをいまや心から喜んでいます。
ぼくの名誉にかけて誓って言いますが、ぼくはザルツブルクとその住民たち(ぼくの言うのは
生まれながらのザルツブルク出身の連中たち)にもうがまんできません。彼らの語り口、
生活ぶりがまったく耐えがたいのです。(中略)
信じて下さい。ぼくがあなたと愛するお姉さんをふたたび抱擁することを熱望して燃えているのを。
ただし、これがザルツブルクでなかったらなあ!でも、ザルツブルクへ向かわないことには会えない
わけですから、よろこんで行きます。≫                          (モーツアルト書簡全集)

かくしてモーツァルトは1779年1月14日又は15日にミュンヘンを発ちザルツブルクに帰郷したのである。
ザルツブルクには親友や支援者もいることでもあり、最後の方の手紙は帰国がだんだん迫り、
ミュンヘンやマンハイムでの就職の思い断ち切れず、ザルツブルクに対する険悪感をいささか誇張して
記述しているとも思われるが、大司教宮廷楽団などはいつでも辞めてやるとの気構えをも
感じさせるのである。

とは言え、モーツァルトがこの時期ザルツブルクで作曲した作品は名曲ぞろいなのである。
『マンハイムとパリ求職の旅』は就職活動の失敗、パリでは母を亡くし、ミュンヘンでは最愛の
アロイジアにはふられるといった苦悩の旅であったわけだが、音楽的にはフォルテ・ピアノとの出会い、
マンハイム楽団(楽派)やパリにおける一流の音楽家達との交流などにより、極めて実り多き旅でも
あったことがうかがえる。

★モーツァルトが失恋した相手であるアロイジア・ヴェーバーはこの年1779年9月ウィーンの宮廷劇場と契約し、
これに伴い家族総出でウィーンに移住している。


Schloss Hellbrunn.jpg
ヘルブルン宮の噴水庭園にある『宴のテーブル』と名付けられたびっくり噴水
(各椅子の中央から噴水が飛び出す。)

★ヘルブルン宮:1613年から19年にかけて当時のザルツブルク大司教マルク・ジッティヒ・フォン・ホーエンエムスが
作らせた噴水細工に満ちた離宮。

モーツァルトは文字通りオルガンの名手で、オルガンの即興演奏家としても桁外れの存在で
あった。彼は子供のときからピアニストとしてだけでなく、ヴァイオリニストオルガニストとしても
高い評価を受けていた。オルガンについてみれば、8歳の時の「西方大旅行」で、バッキンガム宮殿
における国王ジョージ3世シャーロット王妃への御前演奏でも国王のオルガンを弾き絶賛を
博したことが思い出される。
★モーツァルトはヴィオリストでもあり、個人演奏会ではしばしば好んでヴィオラ・パートを受け持っている。

この年1779年、モーツァルト(23歳)は次の様な主たる作品を含め24曲を作曲している。
★24曲には紛失したものや断片も含まれる。

クラヴィーア協奏曲(第10番)変ホ長調K.365:
  正確な作曲時期は不明ながら多分年初に作曲されたと考えられおり、ザルツブルク時代最後のピアノ協奏曲である。
  おそらくピアノの名手であった姉ナンネルとの共演用に作曲されたのであろう。
  ★本作品の完成時期を1775年から77年の間とする説もある。
  ★この作品についてはモーツァルト24歳・ザルツブルク在住最後の年(1780年)ご参照

ミサ曲 ハ長調 ≪戴冠式ミサ ”Kronungs messe”≫ K.317
  3月27日完成し、同年4月4日又は5日にザルツブルク大聖堂にて初演。
  戴冠式の呼称はザルツブルク近郊のバロック様式のマリア・ブライン教会のために作曲されたという説とザルツブルクの
  司教座聖堂のためであるとする説があるが、マリア・ブライン教会の聖母マリアの戴冠を記念する荘厳ミサが毎年
  捧げられていたことよりこの教会のために書かれたのではないかと思われる。

交響曲(第32番)ト短調(序曲)K.318並びに交響曲(第33番)変ロ長調K.319
  第32番K.318はジングシュピール「ツァイーデ」の序曲ではないかとしている(アインシュタイン)。その他1779年に
  ザルツブルクで興行していたベーム一座の出し物用の序曲ではないかとか色々説あり。
  ★K.319の楽器構成はオーボエ2、ファゴット2、ホルン2、ヴァイオリン2部、ヴィオラ2部、バス。小さい構成の楽団でも
  演奏できる作品である。

セレナード ニ長調 K.320 「ポスト・ホルン・セレナード」
  このセレナーデは第6楽章(第2メヌエット)の第2トリオでポストホルン”Posthorn” (郵便馬車のホルン)が用いられていることから
  ポストホルン・セレナーデ」と呼ばれている。詳細並びに音源は「モーツァルトの馬車の旅」ご参照。
  
ディヴェルティメント 二長調 K.334 「ロビニヒ
  この年か翌年1780にザルツブルクの名門貴族の「ロビニヒ家」のために書いたとされている。息子のジームクント(1760~1823)が
  1780年7月ザルツブルク大学の法科の最終試験を終えた際のフィナール・ムジークであるとする説がある。

ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364(320d)
  マンハイムやパリで流行していた新しいジャンルである協奏交響曲にモーツァルトは多大の関心を示し、帰国してから
  半年後の1997年初秋頃にこの協奏交響曲を書いた。この曲が現存する唯一の完成された協奏交響曲である。
  尚、パリで「フルート、オーボエ、ホルン、ファゴットのための協奏交響曲K.Anh.9(297B)を書いたが、上演されないまま
  楽譜も失われてしまったという経緯がある。

⑦2幕のジングシュピール「ツァーイデ”Zaide"(後宮”Das Serail)」K.344(336b)
  このジングシュピールは序曲も作曲されておらず、又、各曲をつなぐ台詞が書き込まれておらず、未完に終わっている。
  作曲の時期は1779年から1780年にかけてなので、この作品についてはモーツァルト24歳・ザルツブルク在住最後の年(1780年)
  ご参照。


ミサ曲 ハ長調 (『戴冠式ミサKrönungsmesse』)        ディヴェルティメント 二長調 K.334 「ロビニヒ」
K.317 VI.アニュス・ディ 変ホ長調 アンダンテ・ソステヌート       第3楽章 メヌエット 二長調
キャスリーン・バトル Kathleen Battle
ヘルベルト・フォン・カラヤン Herbert von Karajan         
ウィーン・フィル Wiener philharmoniker             
          
ソプラノ独唱が歌いだす清らかな旋律は『フィガロの結婚』の
伯爵夫人のアリア 「どこにあるの美しい時は
"Dove sono i bei momenti" にほとんどそのまま用い、
伯爵夫人の穢れなき楽しかった日々を想い起こさせるのである。


ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364(320d)
第一楽章 アレグロ・マエストーソ
Vlin:マクシム・アレクサンドロヴィチ・ヴェンゲーロフ Maxim Aleksandrovich Vengerov
Vla::ユーリー・バシュメトYuri Bashmet      1/2     2/2
     



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モーツァルト24歳・ザルツブルク在住最後の年(1780年)

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マンハイム・パリ求職の旅より帰国後約1年が経過し、1780年が明けた。モーツァルトは1月27日
24歳の誕生日を迎えたのである。

ザルツブルクの生活は単調そのもので、大司教のモーツァルトへの対応に変化が見えるわけでもなく、
モーツァルトにとっては相変わらず高慢この上なき大司教なのであった。この点については翌年1781年
12月16日付でミュンヘンより父レオポルト宛に出した手紙で要旨次の通り述べている。

「ザルツブルクにいるのは父を愛するが故だけにいるのである」「自分だけの問題であれば
今回旅立つ前に今度の辞令でお尻を拭いていただろう」「ザルツブルクではなく、あの君主が、
尊大な貴族たちが日ごとに耐えがたくなっている」

1779年にはベーム一座がそして1780年にはシカネーダー一座が宮廷劇場で興行しており、
父レオポルトをはじめモーツァルトも姉ナンネルも座長であるベームやシカネーダーと親しく
付き合うのである。

★エマヌエル・シカネーダーは一座を引き連れこの年1780年から81年の冬のシーズンに来演しておりモーツアルト一家には
芝居のフリーパス扱いをしている。
★モーツァルトはこれはを契機としてシカネーダーとはウィーンに定住後も親しく付き合い、1790年末初演の「賢者の石」から
最晩年の1791年9月30日初演の「魔笛」へと発展して行くのである。詳細は弊記事猫とモーツァルトご参照。
尚、前年1799年にはベーム一座のために劇音楽「エジプトの王ターモス」のための合唱と幕間音楽K.345/336aを
完成している。この作品は1773年「モーツァルトの3度目のウィーン旅行」においてケプラー男爵の依頼で作曲した初稿(173d)を
新たに書き直したのである。「魔笛」の題材との共通性を持つものである。

モーツァルトは前年からこの年1780年にかけて2幕のジングシュピール「ツァーイデ”Zaide"
(後宮”Das Serail)」K.344(336b)を作曲した。このジングシュピールは序曲も作曲されておらず、
又、各曲をつなぐ台詞も書き込まれておらず、未完に終わっている。この作品の目的も明確に
されていないが、ベーム一座あるいはシカネーダー一座用ではないかとの説もある。しかし、興行用で
あれば契約も手付金もあるので未完で終わるはずがないとも思える。ドイツ語オペラがヨーゼフ2世に
より奨励されていた時期でもあり、ミュンヘン宮廷あるいはウィーン宮廷への売り込みを意図していた
のかも知れない。

★尚、この作品はモーツァルトの死後その遺産の中から発見されており、生前に演奏されたかどうかは不明である。
トルコの太守ゾーリマンの侍女ツァーイデが、捕らわれて奴隷となっているキリスト教徒の貴族ゴーマッツと恋に落ち、
トルコの後宮からの逃亡を企てるという筋書きであり、後になって1782年7月16日にウィーンのブルク劇場で
初演されることになる3幕のジングシュピール「後宮からの誘拐」K.384との共通性に注目しておく必要があろう。

この年の夏頃、待ち焦がれたオペラ作曲の依頼が届いた。翌年1781年の謝肉祭用のオペラ・セリアの
作曲依頼である。依頼主はミュンヘンバイエルン選帝侯カール・テオドールであるが、恐らく
ミュンヘンの宮廷楽団のカンナビヒ、オーボエ奏者のラム、あるいはフルート奏者のヴェンドリング
といった友人達が動いてくれた結果であろう。

新しいオペラ・セリアは「クレタの王、イドメネオ」 K.366である。この題材は、フランス語の悲歌劇
「イドメネ」(1712年)で扱われており、モーツァルトのためには当時ザルツブルク宮廷付司祭
務めていたイタリア生れのジャンバッティスタ・ヴァレスコ師(1735-1805)が台本を書いた。

大司教よりは6週間という期限付き休暇の許可も取得し、1780年11月5日、モーツァルト
ザルツブルクを発ち、ミュンヘンへと旅立つのである。この機会を利用し、ミュンヘン宮廷への
就職を再度試み様との気持ちを新たにするモーツァルトであったが、「イドメネオ」の上演完了後、
大司教の命令が下り、ミュンヘンから直接ウィーンに向かい、同地で独立ウィーン時代の幕開け
迎えることになろうとは誰が予想し得たであろうか。

★モーツァルトがマンハイムで愛し、ミュンヘンで失恋した相手であるアロイジア・ウェーバーはミュンヘンで売れっ子の
宮廷ソプラノ歌手となっていたが、1779年9月彼女はウィーンの宮廷劇場(ブルク劇場)と契約したため、家族でウィーンに
移住していた。そして、1780年10月31日彼女はウィーンの宮廷俳優ヨーゼフ・ランゲ(1751-1831)と結婚したのである。

政治面ではモーツァルトがミュンヘン到着後の11月29日ウィーン・ハプスブルク家女帝
マリア・テレジアが63歳の生涯を閉じ、39歳のヨーゼフ2世(神聖ローマ皇帝)が、この年から
本格的にハプスブルク帝国単独統治を開始するのである。所謂「ヨーゼフ主義」の開始である。
ヨーゼフ2世の単独統治の政策は啓蒙的絶対主義の徹底にあり、各種改革を矢継ぎばやに
実施するのである。後になってプロイセン国王フリードリヒ2世は「ヨーゼフは第一歩を歩み出す前に、
第二歩を踏み出す」と評している。

★モーツァルトの西方大旅行中、1765年9月17日女帝マリア・テレジアの夫君神聖ローマ皇帝フランツが崩御し、その後、
マリア・テレジアは長男のヨーゼフ2世と共同統治を行ってきていた。

この年、レオポルトは2年前にパリで亡くなった妻アンナ・マリアの肖像を
中央に掲げた家族の肖像画を描かせているのである。

Mozart family portrait 
モーツァルトの家族の肖像 油彩画、J.N.デッラ・クローチェ作 1780-81年
1780年から81年にかけて描かれた。モーツァルト(24歳)と姉ナンネル(29歳)は
クラヴィーアを連弾し、父レオポルト(60歳)はヴァイオリンを手にしている。
中央には2年前にパリで57歳で亡くなった母アンナ・マリアの肖像画が描かれている。

★家族の肖像画に描かれている1台のクラヴィーアを2人で弾く、4手のための連弾ソナタは18世紀から19世紀にかけて
上流階級の家庭で流行した。モーツァルトはこのジャンルでは5曲を完成させている。K.19d(9歳の時ロンドンにて、
K.381(123a),K.358(186c)はザルツブルクで1773~74年頃作曲。ウィーンではK.497(1786年)、
K.521(1987年)を作曲している。


作品としてはまずザルツブルク時代最後を飾るクラヴィーア協奏曲となる2台のクラヴィーアの
ための協奏曲(第10番)変ホ長調K.365(316a) を「モーツァルトの家族の肖像画」に因んで
とりあげておく。この作品はクラヴィーアの名手であった姉ナンネルと共演する為に作曲されたものと
思われ、2台の名手のための作品にふさわしく、2台のクラビーアは常に対等にわたりあっている。
1779年初頭に作曲されたとされているが、1775年から77年にかけて作曲されたという説もある。

ヴァイオリン・ソナタ 変ロ長調 K.378(317d)も1779年から1780年にかけての作品であろうと
されている。★モーツアルトがウィーンに定住後、1881年11月に出版される「作品II 」の第4曲として収録される曲である。

前年1779年は超一流の楽団や音楽家と親しく交流したマンハイムとパリの旅から帰国した直後で
創作意欲を掻き立てられ、多数の作品(24曲)を手がけているが、この年1780年はミュンヘンの
謝肉祭用オペラ「イドメネオ」の創作にとりかかったこともあり、作品数は9曲にとどまっている。
この年は特に声楽曲で素晴らしい作品が生まれているのである。

2幕のジングシュピール「ツァーイデ”Zaide"(後宮"Das Serail")」 K.344(336b)
  前述の通り未完成ではあるが、美しいアリアが遺されている。

荘厳ミサ(ミサ・ソレムニス)ハ長調 K.337
  この内アニュス・デイ(神の子羊)はモーツァルトの手になる最後のアニュス・ディであり、極めて美しい終曲となっている。

交響曲(第34番)ハ長調 K.338
  モーツァルトのザルツブルク時代最後の交響曲。8月29日完成。

証聖者の盛儀晩課「ヴェスペレ」ハ長調 K.339 
  モーツァルトのザルツブルクにおける最後の教会作品であり、おそらく9月頃作曲され、大司教の洗礼名の聖人
  「聖ヒエロニムス」の祝日である9月30日の盛儀典礼のために作曲されたと思われる。ソプラノ独唱を主体とした
  ラウダーテ・ドミヌム(主よ誉め称えよ)は極めて優美な楽章である。


                                    2幕のジングシュピール「ツァーイデ”Zaide"
                                    (後宮"Das Serail")」 K.344(336b)より
2台のクラヴィーアのための協奏曲(第10番)変ホ長調       ツァーイデのアリア「安らかにお休み”Ruhe sanft”」
K.365(316a) 第一楽章 アレグロ                    ルチア・ポップ Lucia Popp(ソプラノ)
         
1779年初頭に作曲。ザルツブルク時代最後を飾るピアノ協奏曲。      安らかにお休み、愛しい方、
(1775年から77年にかけて作曲されたという説もある。)          お眠り、あなたの幸運が目覚めさせるまで
姉ナンネルと共演する為に作曲されたものであろう。             さあ、私の肖像画を差し上げましょう、
2台の名手のための作品にふさわしく、2台のクラビーアは常に        ほら、なんて明るくほほ笑みかけているのでしょう。
対等にわたりあう。                             汝ら、心地よい眠りたちよ、彼を寝かしつけ給え。
                                     そして、彼の甘い愛の夢を、最後は
                                     実りある現実とさせ給え。


荘厳ミサ(ミサ・ソレムニス)ハ長調 K.337              証聖者の盛儀晩課「ヴェスペレ」
VI.アニュス・デイ 変ホ長調 アンダンテ・ソステヌート           ”Vesperae solennes de Confessore"
                                  ハ長調 K.339 V.ラウダーテ・ドミヌム ヘ短調 アンダンテ
                                    ルチア・ポップ Lucia Popp
     
モーツァルトが完成させた最終のアニュス・デイ               ザルツブルク時代の最後の教会作品。
ソプラノ独唱が歌いだす清らかな旋律は「フィガロの結婚」の        ラテン語聖歌ラウダーテ・ドミヌム「主よ誉め称えよ」
伯爵夫人のカヴァティーナ 「愛の神よ、安らぎを与えたまえ」
”Porgi amor qualche ristoro"の冒頭に用いられる。
オルガンがソロ奏者として華々しく登場。


アニュス・デイ(Agnus Dei):神の子羊(平和の賛歌)
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi,(神の子羊、世の罪を除きたもう主よ)
miserere nobis.(われらをあわれみたまえ)
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi: (世の罪を除きたもう主よ)
dona nobis pacem.(われらに平安を与えたまえ)


この年1780年に作曲された、荘厳ミサ(ミサ・ソレムニス)ハ長調 K.337 VI.アニュス・デイの冒頭旋律は
それから6年後の1786年5月1日ウィーンのブルク劇場で初演される「フィガロの結婚」K.492 第2幕第11曲の
伯爵夫人のカヴァティーナ「愛の神よ、安らぎを与えたまえ」Porgi amor qualche ristoro"の冒頭に
用いられ、伯爵夫人神への祈りが見事に表現されるのである。

LA CONTESSA                伯爵夫人
Porgi amor qualche ristoro      お授けください、愛の神様、なんらかの慰め、
Al mio duolo, a'miei sospir.     私の苦しみと溜息に。
O mi rendi il mio tesoro,       私に愛しい人を返して下さるか、
O mi lascia almen morir.       さもなくば、せめて私を死なせてください。



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モーツァルトのミュンヘン旅行(「イドメネオ」作曲と上演の旅)

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モーツァルト(当時24歳)は1780年11月5日にザルツブルクを発ち、ミュンヘンへと駅馬車で旅立った。
初めての一人旅であり、バイエルン選帝侯カール・テオドール(在位:1777年 - 1799年)の要請を受け、
翌年の謝肉祭用のオペラ「クレタの王イドメネオ」の作曲と演奏指導の旅である。

★ミュンヘンにおける謝肉祭用オペラ作曲と演奏指導は今回で二度目となる。一度目は、モーツァルトが19歳の時、
1775年1月13日初演した3幕のドラマ・ジョコーソ(オペラ・ブッファ)「偽の女庭師」であった。尚、当時のバイエルン選帝侯は
マクシミリアン3世ヨーゼフ(1727年 - 1777年)で、今回はカール・テオドール(在位:1777年 - 1799年)。

ミュンヘンには翌日6日午後1時に無事到着したのであるが、非常に辛い駅馬車の旅を余儀なくされた。
11月8日付ミュンヘンよりザルツブルクの父宛の第一報には次の通り述べている。「モーツァルトの馬車の旅」でも
引用した。)

≪。。。ぼくらのうち(注:駅馬車に乗り合わせた乗客を含めぼくらとしている)誰ひとりとして、夜の間、一分でさえも
眠れませんでした。あの馬車では魂が放り出されます!そして座席ときたら!石の様に固いのです!
(中略)二つの駅の間ずっと、クッションに両手を突っ込んで、お尻を宙に浮かせていました。(中略)
これからは原則として、駅馬車で行くよりは、むしろ徒歩で行ったほうがよさそうです。≫

上記の様な報告をしたあと、「イドメネオ」の台本を書いたヴァレスコ師にイーリアのアリアの修正を依頼
する様父レオポルトに頼み、イーリア役のドロテーア・ヴェンドリング夫人は彼女のシェーナ(イーリアの別の
アリア)に最高に満足していると語るのである。

その後何度となくモーツァルト父レオポルトに台詞、台本の修正が必要な箇所とその理由を説明し
レオポルトはこれを受けてヴァレスコ師にその必要性を説得するなど、モーツァルトとレオポルトは、
これら台本の修正作業を通じ、親子の息がぴったり合った時期を過ごすのである。モーツァルトは
台詞や歌詞を極力短く、簡潔にし、音楽で最大の効果を引き出すべきであると繰り返し主張するのである。

これらレオポルト宛の複数の手紙には、いかにモーツァルトがこのオペラに注力していたか、
さらにはモーツァルトがいかに深く作詞に関与したかが如実に示されているのである。
★モーツァルトは翌年ウィーン定住後も「イドメネオ」の上演を行うべく修正版を作成することになる。

モーツァルトが歌手の中で最も問題視したのはカストラート歌手のヴィンチェンツォ・デル・プラート
(1756-1828)であり、彼にはオペラ全体を教え込む必要があると同時に声にもむらがあり、発声
をも指導することになった。

他方、ザルツブルクを出発する前にシカネーダーから依頼を受けていたアリアを作曲し、11月22日
ザルツブルクで冬の興行中のシカネーダーにレオポルト経由送付した。
★送付したアリアはシカネーダーの喜劇「眠れぬ二夜、別名、騙されて幸せ」への挿入曲であろうとされている。

ヴァレスコ師のイタリア語台本ドイツ語に翻訳したのはヨハン・アンドレアス・シャハトナー。
モーツァルトはミュンヘン宮廷劇場総監督のゼーアウ伯爵の要請に応じ、ヴァレスコのイタリア語
台本作成及びシャハトナーの翻訳サービス契約をモーツァルトの名において締結し、ゼーアウ伯爵は
報酬を一括モーツァルトに支払っている。
★父レオポルトはヴァレスコが度重なる台本の修正により報酬の増額あるいは早期支払いを要求してきた際、彼との契約は
ゼーアウ伯爵との別契約とすべきであったとモーツァルトにコメントしている。

1780年11月29日にオーストリア・ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアが崩御し、帝国領内での
興行は6週間中止となった。ミュンヘンもザルツブルクも3ヶ月の服喪期間を設定してはいるが、
ミュンヘンでは劇場を一時閉鎖するとかの措置はとられず、「ぼくのオペラには、女帝の死はまったく
影響ありません。どの劇場も全然閉鎖されておらず、芝居はいつものようにずっと続けられて
いますから。」と連絡するのである。(ミュンヘンのモーツァルトよりザルツブルクの父レオポルト宛1780年12月5日付書簡)

★亡きバイエルン選帝侯マクシミリアン3世の喪は6週間であったにも拘わらず、女帝の喪を3ヶ月としたのは多分に
バイエルン継承問題に伴う政治的配慮(オーストリアへの従順を示すという配慮)があったのであろう。

12月23日に第三回のオーケストラ伴奏によるリハーサルが行われ、この結果についてモーツァルトは
父レオポルトに次の通り報告している。(1780年12月27日付、ミュンヘン発)

≪最後にやった総稽古は見事でした。それは宮廷の大広間で行われ、選帝侯も列席しました。
今回は、フル・オーケストラで(もちろん、歌劇場に関係している全員で)稽古が行われました。
第一幕が終わると、選帝侯は大きな声で「ブラヴォー!」とぼくに言われました。そして、ぼくが
選帝侯の手にキスをしに行くと、こう言われました。「このオペラはすばらしいものとなるだろう。
間違いなく、君の名誉となるにちがいない。」≫

★バイエルン選帝侯カール・テオドール:カール4世フィリップ・テオドール(Karl IV. Philipp Theodor、1724年12月12日 -
1799年2月16日)は、プファルツ選帝侯(在位:1743年 - 1777年)、後にバイエルン選帝侯(在位:1777年 - 1799年)。
バイエルン選帝侯としてはカール・テオドール(またはカール2世テオドール)。ヴィッテルスバッハ家は14世紀以降
バイエルン系(ルートヴィヒ4世が祖)とプファルツ系(ルドルフ1世が祖)に家系が分かれていたが、プファルツ系の
カール・テオドールがバイエルン選帝侯を継承した事で統合された。

1781年が明け、1月25日父レオポルトと姉ナンネルがザルツブルクを発ち、翌日ミュンヘンに到着した。
勿論、目的はモーツァルトの「イドメネオ」初演に立ち会うためである。

1781年1月27日、モーツァルトの25歳の誕生日に最後の総稽古が行われ、1月29日
ミュンヘン宮廷劇場(現キュヴィリエ劇場)で初演された。

★キュヴィリエ劇場(ミュンヘンにあるロココ式劇場/独: Cuvilliés-Theater)は前任バイエルン選帝侯 (在位:1745年 – 1777年)の
マクシミリアン3世ヨーゼフ(Maximilian III. Joseph, 1727年3月28日 - 1777年12月30日)が、建設をフランソワ・ド・
キュヴィリエに命じ、1753年完成した宮廷(レジデンツ)にある劇場。オペラ・セリアだけが上演された。 

       
Kurfürst_Karl_Theodor_(Bayern).jpg       DSC03286.JPG
バイエルン選帝侯カール・テオドール                    キュヴィリエ劇場内部


歌劇 『クレタの王,イドメネオ』 "Idomeneo, rè di Creta" K.366

背景など:
★仏語原作「イドメネ」は紀元前1250年頃、小アジアのトロイア(現在はトルコの領土)に対してギリシャのミケーネ
(ミュケナイ)を中心とするアカイア人の遠征軍が行ったギリシア神話上の戦争である「トロイア戦争」直後を題材とし、
古代ギリシアにおける、ホメーロスの英雄叙事詩『イーリアス』、『オデュッセイア』のほか、『キュプリア』、『アイティオピス』、
などから題材を得ている。

★仏語原作(台本)ではイドメネオがイダマンテを殺し、悲しみの中でイーリアも死を選ぶという悲惨な結末となっているが、
ヴァレスコ師のモーツァルト用の台本では、「あらすじ」の通りハッピーエンドで終わらせているのである。

★台本ではイドメネオはアルゴスの王として登場するが、古代アルゴスはミケーネ文明の時代には重要な要塞であった。
ミケーネは現在、ギリシャのペロポネソス半島東部にあるアルゴリア県の都市であるが、1872年ハインリッヒ・
シュリーマンによって遺跡が発掘され古代ギリシャ以前の文明、所謂ミケーネ文明が発見された。

作詞者:
アントワーヌ・ダンシェ(Antoine Danchet 1671~1748)の原作(仏語、5幕)を、ザルツブルク宮廷礼拝堂付司祭
ジャンバティスタ・ヴァレスコ(Giambattista Varesco 1736~1805)がイタリア語で3幕に書き改めた。

初演時の主たる配役表
イドメネオ(クレタの王):アントン・ラーフ(T)
イダマンテ(その息子)  :ヴィンチェンツォ・デル・プラート(S.カストラート)★
イーリア(トロイアの王女、プリアモスの娘):ドロテア・ヴェンドリング夫人(S)
エレットラ(ミケーネ王アガメムノーンの王女):エリザペッタ・ヴェンドリング夫人(S)
アルバーチェ(王の腹心):ジョヴァンニ・ヴァレージ(T)

★1786年3月13日におこなわれたウィーンでの愛好家たちによる上演用にモーツァルトはイダマンテのパートを
テノール声部用に書き直している。

舞台設定:
紀元前1250年頃のトロイア(現在はトルコの領土)とギリシアの戦争(トロイア戦争)終結直後(ギリシャ軍が勝利)の、
クレタ(ギリシャ)の首都シドン。

あらすじ:
トロイアの王プリアモスの王女イーリアは、クレタの首都シドンに囚われの身となっているが、敵であるクレタ王イドメネオの
息子イダマンテと相愛の仲となっている。他方、アルゴス(ミケーネ)の王アガメムノーンの王女エレットラも王子を愛している。
イドメネオはトロイア戦争で勝利を収め帰還の途中、嵐に遭い、遭難しかかるが、海神ネプチューンに助けられる。
彼は海神に、浜辺で最初に出遭った者を生贄に捧げると誓うが、最初に会うのは自分の息子イダマンテであった。
王は親友アルバーチェの進言もあり、イダマンテをエレットラと共にアルゴス(ミケーネ)に逃がそうとする。
しかし二人が乗船しようとすると、激しい嵐が起こる。海神の怒りである。イダマンテは自分が犠牲にならなければならない
ことを知る。イドメネオが息子の胸に剣を突き刺さんとした時、イリアが現れ自らを生贄として捧げるよう申し出る。
すると突然、神託の声が響き渡り、愛の神の勝利が宣言され、「イドメネオが王位を退き、イダマンテが王位に、イリアは
その妃となること」が告げられる。イドメネオは神託に従い、イダマンテの戴冠を行う。
(戴冠式の模様はパントマイムで行われ、祝典バレエが踊られる。)

祝典バレエオペラ「イドメネオ」へのバレエ音楽 K.367
カール・テオドール選帝侯はフランスのオペラに親しんでいたこともあり、「イドメネオ」の第1幕と第3幕のフィナーレ
(或いは第3幕フィナーレのみであったかも知れないが)でバレエが上演されたとされているが、正確なバレエ
上演の箇所については確証がない。尚、バレエ音楽はシャコンヌ、パ・スール、パスピエ、ガヴォット、パッサカリアの5曲から構成されている。


                                  管弦楽伴奏付レチタティーヴォとイーリアのアリア      
序曲                               私の悲惨なこの運命はいつ終わるのだろう…
指揮:ジェームズ・レヴァイン James Levine             父よ,兄よ,さようなら!
メトロポリタン歌劇場管弦楽団                    ”Quando avran fine omai” ”Padre, germani, addio!”
The Metropolitan Opera Orchestra                イーリア:イレアナ・コトルバスIleana Cotrubas
     

イーリアのレチタティーヴォとアリア:レチタティーヴォでは自分の不幸な運命を嘆くと同時に敵方の皇子を恋している
感情を表す。アリアでは敵方のギリシャ人の皇子に恋している自分の罪を歌う。

エレットラのアリア「この心の中に感じるものすべては」      イドメネオのアリア「わしは自分のまわりに見ることになろう。」
"Tutte nel cor vi sento"                         ”Vedrommi intorno”
ヒルデガルド・ベーレンス Hildegard Behrens(ソプラノ)     イドメネオ:ルチアーノ・パヴァロッティ Luciano Pavarotti
     
ドイツのソプラノ歌手H.ベーレンスさんは2009年8月草津
国際音楽アカデミー&フェスティバルに出演する為に来日
していたが、8月17日から体調不良を訴え東京都港区の
病院に入院していた処、8月18日に動脈瘤破裂などにより
72歳の生涯を閉じられました。

エレットラのアリア:王の娘たるエレットラが恋敵としてトロイアの女奴隷を持つこと事態に激しい怒りを覚える
エレットラは、恋人(イダマンテ)の心を奪ったイーリアに復讐と残忍な仕打ちを与えてやると歌う。

イドメネオのアリア:海岸で最初に出会った者を海神ネプチューンへの生贄として差し出すことを条件に嵐を避け、
無事クレタの海岸に戻ったイドメネオが、「悲しげな亡霊を自分のまわりにみることになろう。」「突き刺された胸の中に、
自分が犯した罪を飛び散った血潮が示すことになろう。」と忌まわしい誓約をしてしまった自分を責めながら歌う。

         ★★★★★         ★★★★★         ★★★★★

モーツァルトは1781年初頭、ミュンヘン宮廷楽団の名オーボエ奏者で友人の
フリードリヒ・ラムのためにオーボエ四重奏曲へ長調 K.370を作曲している。

オーボエ四重奏曲 へ長調 K.370
第一楽章 アレグロ
カルロ・ロマーノ Carlo Romano(オーボエ)

1781年初頭、ミュンヘン宮廷楽団の名オーボエ奏者
フリードリヒ・ラムのために書かれた。


モーツァルト大司教コロレード伯より得ていた休暇は6週間であり12月18日までとの期限付で
あったが、特に休暇延長申請もせずミュンヘンに留まり、作曲と演奏指導を続け初演にこぎつけ、
さらにミュンヘンに留まり続けていたのである。

他方、大司教は1781年1月20日、家臣の一部を連れウィーンに向けてザルツブルクを出発した。
父親の帝国副宰相ルードルフ・ヨーゼフ・コロレード=メルス・ウント・ヴァルゼー(1706-88)の病気
見舞いをその目的としていた。
★同行させた従者の中にはブルネッティ(コンサート・マスター)やチェッカレッリ(カストラート歌手)も含まれており、
大司教のウィーン生活には音楽も必要であったことがわかる。

モーツァルトと父レオポルトそして姉ナンネル「イドメネオ」の上演がすんでもミュンヘンに滞在し、
父レオポルトの故郷アウクスブルクまで足を延ばしていた。
★この年(1780年)「偽の女庭師イタリア語”La finta giardiniera"」のジングシュピール版≪ドイツ語版タイトル:
"Die verstellte Gartnerin (偽装した女庭師)≫がアウクスブルクベーム一座により上演されており、同地訪問はこの上演の
ためかとも思われる。尚、その後ドイツ語の表題は”Die Gartnerin aus Liebe"(愛の女庭師)と改題されている。

ミュンヘンモーツァルトに対し、ウィーン滞在中の大司教より直ちにウィーンに来るようにとの命令が
下った。大司教が開催する夕食会或いはコンサートにクラヴィーアの名手モーツァルトが必要なのである。

1781年3月12日モーツァルトはミュンヘンを旅発ちウィーンに直行した。ザルツブルクの北方を
通過しての馬車の旅である。

★モーツァルトは5日目の3月16日午前9時ウィーンに到着している。
★ザルツブルクに戻らず、ミュンヘンよりウィーンに直行することになったモーツァルトはウィーンで定住を決断することになる。
従い、ミュンヘンを出発した段階でモーツァルトのザルツブルク時代、即ち彼の生涯の前半を終えることになるのである。


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ウィーン滞在中の大司教コロレド伯よりウィーンに直行せよとの指示を受けたモーツァルト(25歳)は
ミュンヘンを1781年3月12日駅馬車で出発、途中で小型乗合馬車に乗り換え5日目の3月16日朝9時に
ウィーンに到着した。宿泊先は大司教の伯父カール・コロレド伯爵邸である「ドイツ騎士団の館」である。
★「ドイツ騎士団の館(ドイツチェス・ハウス)は大司教と従者の宿泊先であった。

到着した日の午後4時に開催された大司教主催の音楽会で、主たる来賓である貴族たちに演奏を
行った。

ウィーンにおいても大司教に対する不満はますますつのり父レオポルト宛ての3月17日付の手紙を
はじめとして、それ以降ことあるごとに大司教に対する不満を書き連ねるのである。

「食事は料理人たちと一緒にとることになっており、召使と同じ扱いであり、ザルツブルクと
同じである。」「個人的活動(演奏会)」を行うことを許可してくれない。部下が稼ぐことを好まない。」
「一所懸命作曲をしてもなんら特別報酬もくれない。」「演奏会に出れないので皇帝(ヨーゼフ2世)と
出遭うチャンスを逃した。」

ついにザルツブルクへの帰郷命令をめぐり運命の日、5月9日、大司教と決裂の日が来た。
1781年5月9日付の手紙でモーツァルトは父レオポルトに報告するのである。

≪。。。ぼくが奴(注:大司教のこと)のところへ入って行くと、まずこうでした。大司教「ところでお若いの、
いつ発つのだ?」 ぼく「今夜、発つつもりでしたが、座席がもう一杯でした。」すると一気にまくしたてた
のです。おまえみたいなだらしない若僧は見たことがない。(中略) ぼくのことを「ろくでなし、がき」と
呼び、「ばか」呼ばわりしました。ああ、とても全部は書きたくありません。ついにぼくは、血が煮えくり
返ってきて、言ってやりました。「では猊下はわたしにご不満なんですね?」 「なんだ、きさまはわしを
脅かす気か?ばかもん、ああ、ばかもん!ドアはあそこだ、分かるか、こんな哀れな小僧っ子に、もう
用はない」 とうとうぼくも言いました。「ぼくももう、あんたに用はありませんね」 「さあ、出て行け」
そこでぼくは、部屋を出ながら「これが最後です。あした、文書で届けます。」≫ 

モーツァルトは大司教との決裂の模様を再現する形で父レオポルトに報告するとともに
次の様に付言するのである。

≪ぼくの名誉は、ぼくにとって何ものにも優るものです。≫≪ぼくのことは心配しないで下さい。当地での
ぼくのことには確実な自信があるので、なんら理由がなくても辞職していたでしょう。≫≪ぼくの幸運は
今やっと始まるのですから。そしてぼくの幸運はあなたの幸運でもあると思います。≫

事態に仰天した父レオポルトよりはモーツァルトを翻意させようと種々説得を試みるのであるが、
退職とウィーン定住の意思は堅く、自分を支持せず、弱腰な父に対して次の通り言い放つのである。

≪。。。あなたの手紙には、ただの一行もぼくの父親を見出せないのです!たしかに父親ではあるかも
知れませんが、でも自分自身の名誉と子どもたちの名誉を気づかう最上の父親、愛情に溢れた
父親ではありません。一言でいえば、ぼくのお父さんではありません。≫        (5月19日付)

その後大司教の侍従であるアルコ伯爵よりの呼び出しもあり、数度会談を重ねたが、結局
アルコ伯爵まで怒らせてしまい、≪戸口から追い出し、お尻に足蹴をくれたというわけです。(中略)
ぼくは三通の陳情書(注:辞職願)を作り、それを五回提出しましたが、そのたびごとに突っ返され
ました。(中略)この陳情書のおかげで、ぼくは世にも見事なやり口で職務を解雇されました。≫
                         (1781年6月9日付父レオポルト宛モーツァルトの手紙  モーツァルト書簡全集)

かくしてモーツァルト反抗と反乱は終わり、ザルツブルク宮廷と決別すると同時に、父レオポルトから
精神的にも独立し、ウィーン時代の幕開けとなったのである。

モーツァルトはフリーランスの音楽家をめざしているわけではなく、ウィーン宮廷音楽家として
採用されることを目指すのである。このためには皇帝ヨーゼフ2世に認められる必要があり、その手段
としては、ヨーゼフ2世が当時推進していたドイツ語オペラ(ジングシュピール)の作曲を
することであると考えていた。

モーツァルトがウィーンで生計を立てるために行ったことは次の通りである。

①クラヴィーア教師
ウィーンでの最初の弟子となったルムベーケ伯爵夫人や、裕福な出版業者の妻フォン・トラットナー夫人、さらには
モーツァルトがその才能を高く評価したヨゼファ・バルバラ・アウエルンハンマー嬢(1758-1820)があげられる。
②演奏会の開催
この年は11月23日に弟子のアウエルンハンマー邸で催された私的な音楽会があげられる。演奏会は大規模な
公開演奏会あるいは貴族や富豪の邸宅で催される私的演奏会にわかれるが、いずれも大きな収入源になるのである。
③楽譜の出版
まずウィーンのアルタリア社から1781年末に「作品II 」としてヴァイオリン・ソナタ集(全6曲)≪アウエルンハンマー・ソナタ≫,
K.296 K.376 - 380を出版した。
④オペラの作曲
オペラの作曲はもっともまとまった収入となるわけだが、この年1871年の6月頃にはウィーン宮廷劇場監督
オルシーニ=ローゼンベルク伯爵より作曲を頼まれ、7月30日には台本作者のゴットリーブ・シュテファニーよりジングシュピール
(ドイツ語オペラ)≪後宮からの誘拐≫の台本を受け取り8月22日には第一幕を完成させている(全曲完成は翌年
1782年5月となり7月16日ブルク劇場で初演)。
★≪後宮からの誘拐≫K.384についての詳細は次回記事にて取り上げる予定。

モーツァルトが失恋した相手のアロイジア・ヴェーバーとその一家はアロイジアが1779年9月ウィーンの
ブルク劇場と専属契約を結んだので一家でミュンヘンよりウィーンに移住していた。父親のフリードリンは
1779年10月23日ウィーンで卒中で世を去り、アロイジアは1780年10月31日ウィーン宮廷俳優の
ヨハン・ヨーゼフ・ランゲと結婚していた。母のツェツィーリアはウィーンで下宿屋を開きアロイジア
以外の3人の娘達(長女のヨゼファ、三女のコンスタンツェ、末娘ゾフィー)を養っていた。

モーツァルトはウィーン到着後かなり早い時期にアロイジア(ランゲ夫人)及びヴェーバー家と再会し、
大司教との決裂の約1週間前(5月初旬)にはドイツ館からヴェーバー家下宿人として移り住んで
いたのである。

モーツァルトとヴェーバー家の三女コンスタンツェの間で愛が芽生え始めたのは恐らく7月頃のことかと
思われ、モーツァルトは父レオポルトに対し、それとなく結婚したいという思いを洩らしていたのであるが、
ついに12月15日付父宛の手紙で彼女との結婚の意向を明確に表明した。父レオポルトとしては、
大司教との決裂をなんとか乗り越えたと思えば今度は懸念していた通りヴェーバー家の娘との結婚を
持ち出され困惑極まりなしといったところであった。これ以降翌年1782年8月4日ウィーンの
聖シュテファン大聖堂で行われる結婚式までモーツァルトは父レオポルトに結婚に対する同意を
求め続けることになる。


 
18世紀のウイーン-1.jpg
ベルヴェデーレ宮から望むウィーンの情景 
ベルナルド・ベロット作 1758年 136×214cm ウィーン美術史美術館蔵
★Bernardo Bellotto: (1720 -1780)イタリア(ヴェネツィア)生まれの景観画家。伯父である大画家カナレット
(ジョヴァンニ・アントニオ・カナル)に弟子入りし絵画を学ぶ。1758年、オーストリア・ハプスブルク家君主である女帝
マリア・テレジアの誘いを受けウィーンに滞在、その後ミュンヘンを訪問した。本作品はマリア・テレジアの要請による。


  音楽的には大司教との決裂以前の4月3日音楽芸術家協会コンサートで、モーツァルトは初めて
ウィーンの聴衆の前に作曲家、演奏家としてデビューし、広く聴衆の喝采を博したのである。
モーツァルトは父レオポルトに次の通り語っている。(4月4日付手紙)
≪。。。拍手が鳴り止まなかったので、ぼくは初めからもう一度弾き直さなくてはなりませんでした。
(中略)確かにここは(注:ウィーンのこと)、すばらしいところで、ぼくの仕事に世界一あっています。≫

★皇帝ヨーゼフ2世が臨席していたとされている。指揮者は当時ウィーン宮廷楽長であったジュッセッぺ・ボンノで
大編成のオーケストラはモーツァルトの交響曲を披露している。交響曲は(第31番)ニ長調「パリ」K.297/300a
但し(第34番)ハ長調(K.338)であるとする説もある。モーツァルトはクラヴィーア独奏で「セビリャの理髪師」からのロマンス
私はランドール」による12の変奏曲 変ホ長調」K.354/299aを演奏している。

音楽面でのこの年最後のトピックスは12月24日皇帝ヨーゼフ2世の御前演奏として行われた
ウィーン来訪中のイタリア人音楽家ムツィオ・クレメンティとの競演であった。結果はモーツァルトの
完全な勝利となったが、皇帝には、ウィーン宮廷のイタリア人音楽家モーツァルトを認めさせようという
魂胆があったのではとも思えるのである。

★ムツィオ・クレメンティ:Muzio Filippo Vincenzo Francesco Saverio Clementi, 1752年1月23日 - 1832年3月10日、
ローマに生れ、イギリスで没した作曲家・ピアニスト・教師・編集者・出版業者・楽器製造業者。


                                   ヴァイオリン・ソナタ ト短調 K.379(373a)
                                    第一楽章アダージョ
ヴァイオリンのためのロンド ハ長調 K.373            レイチェル・ポジャー Rachel Podger, violin
アイザック・スターンIsaac Stern                   ゲーリー・クーパーGary Cooper, fortepiano
     
4月8日大司教主催の音楽会で演奏された。(作曲は4月2日)    「作品II 」≪アウエルンハンマー・ソナタ≫の第5曲


2台のクラヴィーアのためのソナタ 二長調 K.448(375a)    ヴァイオリン・ソナタ ヘ長調 K.377(374e)
第一楽章アレグロ・コン・スピーリト                   第一楽章 アレグロ
ダニエル・バレンボイムDaniel Barenboim &           アルテュール・グリュミオーArthur Grumiaux, violin
ラン・ランLang Lang                          ワルター・クリーンWalter Klien, piano
     
作曲時期:1781年11月(推定)。初演:11月23日ウィーンの      「作品 II 」の第3曲(注:第1曲 K.376 (K.374d)
アウエルンハンマー邸の演奏会。モーツァルトがセコンド、         へ長調で書かれている。)
弟子のアウエルンハンマー嬢がプリモを弾いている。
モーツァルトは1784年6月13日にも弟子の
バルバラ・プロイヤー嬢とこの作品を演奏している。

         ★★★★★         ★★★★★         ★★★★★
   
オペラ「後宮からの誘拐」の作曲も8月22日には第一幕を完成させ、父レオポルトには次の様にオペラの
表現美学と創作理念について語るのである。

≪。。。人間がこんなに激しく怒ると、あらゆる秩序や節度を越えて、我を忘れてしまうからで、音楽も
同様に我を忘れなくてはなりません。しかし、激情というものは、それが烈しくあろうとなかろうと、
けっして嫌悪感を催すほどに表現されてはいけません。そして音楽は、どんなに恐ろしい場面でも、
けっして耳障りであってはならず、やはり楽しませなくてはなりません。つまり、つねに音楽で
あることが必要です。≫(1781年9月26日付書簡)

≪。。。オペラでは、詩は音楽の従順な娘でなくてはいけません。イタリアの喜歌劇がなぜいたる
ところで受けるのか?ひどい台本にもかかわらず!パリでさえもそうです。ぼく自身、それについて
目撃しています。オペラでは音楽が完全に支配していて、そのためにすべてを忘れさせるからです。
それだけにいっそう、オペラは作品の構想がうまく構成されていなくてはなりません。(中略)
作曲者の全体の構想をぶちこわすような言葉や詩句が挿入されたりしなければ、必ずよろこばれる
でしょう。≫ (1781年10月13日付書簡)

★「後宮からの誘拐」全曲完成は翌年1782年5月となり7月16日ブルク劇場で初演された。当初は1781年9月の
パウル・ペトロヴィッチ大公(のちのロシア皇帝)の来訪に合わせて初演する予定であったが、大公の来訪が延期に
なったり、詳細は不明ながら、初演を阻止せんとの陰謀による遅延も生じている。

この時期モーツァルトは演奏会で自分自身がクラヴィーア奏者として独奏するため、あるいは、
弟子の演奏用に次の様な変奏曲を書いたのである。

クラヴィーアとヴァイオリンのための変奏曲
「羊飼いの娘セリーヌ」によるクラヴィーアとヴァイオリンのための12の変奏曲 ト長調 K.359 
作曲時期:6月頃
「ああ、私は恋人を失くした」によるクラヴィーアとヴァイオリンのための6つの変奏曲 ト短調
作曲時期:初夏

クラヴィーアのための変奏曲 作曲時期:1781年6月(推定)
グレトリーのオペラ「サムニウム人の結婚”Les Mariages Samnites」の合唱曲「愛の神 Dieu d'amour」による8つの変奏曲
へ長調 K.352(374c)

クラヴィーアのための変奏曲として1781/1782頃作曲されたと推定されている次の作品がある。
「きれいなフランソワーズ」によるクラヴィーアのための12の変奏曲 変ホ長調
「ああ、お母さん、あなたに申しましょう ”Ah vous dirai-je, Maman”」による12の変奏曲ハ長調.K.265(300e)
1781/1782頃作曲されたと推定されている(出版は1785年)。1778年、パリに滞在していたモーツァルトがこの曲を
書いたという説もあったが1781/1782頃の作曲と推定されるに至った。主題は娘が母に恋する人のことを打ち明ける
シャンソンに由来する。1770年代には変奏曲主題としてパリで最も愛好された旋律であった。
:この変奏曲の主題は1806年の英国の詩人ジェーン・テイラー(Jane Taylor)の英語詩”The Star"の替え歌
"Twinkle Twinkle, Little Star"が童謡として世界的に広まり、日本にも導入され、「キラキラ星」の童謡の名で
きらきら星変奏曲」としても知られることとなった。

ヴァルター・ギーゼキング:
Walter Gieseking
(1895 - 1956)



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モーツァルト26歳の結婚と「後宮からの誘拐」(ウィーン②1782年)

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前年1781年よりウィーン定住を開始したモーツァルトは、ウィーンで初めての新年(1782年)を迎え、
1月27日26歳の誕生日を祝ったのである。

フリーの音楽家として生活の糧を得るための方策も少しづつ軌道に乗り始め、ブルク劇場用の
ジングシュピール「後宮からの誘拐」の作曲にも精魂傾けていた。このドイツ語オペラのあらすじは
後述の通り、「コンスタンツェ」という名の女性をその恋人が後宮から救い出そうとするストーリーであり、
偶然とは言えモーツァルトの彼女と同名なのである。

ヴェーバー家の三女で妻となるコンスタンツェについてモーツァルトは次の通り父レオポルト
説明している。(1781年12月15日付書簡)

≪。。。彼女はブスではありませんが、けっして美人とは言えません。およそ彼女の美しさは、その
小さな黒い目と、すらりとした体つきにあります。機知はありませんが、妻として、母親としての
務めを果たせるだけの常識は充分に備えています。彼女に浪費癖などありません。それは真っ赤な
うそです。それどころか質素な身なりに慣れています。(中略)家計も心得ているし、世にも優しい
心をもっています。≫

レオポルトからみればコンスタンツェの母ツェツィリアの罠にはまったとしか思えなかったのであろう、
コンスタンツェとの結婚には否定的な意見を述べていたことは確かである。
★レオポルトのこの種複数の手紙は現存しておらず、恐らくコンスタンツェ(或いは彼女の意向を受けて彼女の再婚相手でモーツァルトの
伝記を書いたニッセン)がモーツァルト没後破棄したのであろうとされている。

この頃のモーツァルトの生活につき5歳年上の姉、ナンネルに次の様に語っている。(1782年2月13日付書簡)
≪ぼくはいつも6時までにもう髪を整えて、7時までにすっかり身支度をすませます。それから
9時まで作曲をします。9時から1時まで、レッスンをします。それから昼食をとりますが、どこかに
招かれたとき、たとえば今日明日のようにツィヒー伯爵やトゥーン伯爵夫人のところでは、2時か3時に
なります。夕方、5時か6時までは仕事ができません。そして、そのあとも演奏会で妨げられることが
よくあります。もしそういうことがなければ9時まで作曲します。それから、ぼくのいとしいコンスタンツェの
ところへ行きます。(中略)家に帰るのは10時半か11時です。
さらに夜は1時まで作曲にペンを走らせることもあるが、6時には起床すると付け加えるのである。

元外交官で当時宮廷図書館長であったヴァン・スヴィーテン男爵の知遇を得たモーツァルトは、
男爵が外交官時代、特に最後の赴任地であったベルリンで収集したバッハの楽譜とロンドンで
収集したヘンデルの楽譜をもとに毎日曜日に宮廷図書館内にある男爵の自宅で催す私的音楽会に
参加し、第1回イタリア旅行の際、ボローニャのマルティーニ師から厳格対位法を学んだモーツァルトは
バッハヘンデルフーガ作品に集中的に触れる機会を得たのである。一般に「バッハ・ヘンデル体験」と
呼ばれているが、次の様に父レオポルトに語っている。

≪。。。ぼくは毎日曜日、12時に、ヴァン・スヴィーテン男爵のところへ行きます。そこではヘンデルと
バッハ以外は何も演奏されません。ぼくはいま、バッハのフーガを集めています。セヴァスティアンの
作品だけでなく、エマヌエルやフリーデマン・バッハのも含めてです。それからヘンデルのも。(中略)
イギリスのバッハ(注:ヨハン・クリスティアン・バッハ)が亡くなったことはもうご存知ですね?音楽界に
とってなんという損失でしょう。≫

F.J.ハイドンが1781年「ロシア四重奏曲」op.33(全6曲)の作曲を完成し、この年1782年4月ウィーンの
アルタリア社から出版している。これ以前の1781年12月には筆写譜による予約販売を開始した。
★弦楽四重奏曲は約10年前に作曲した作品20から途絶えていたが「全く新しい特別の方法で作曲され」発表されたのであった。

モーツァルトのウィーン定住をまっていたかの様に発表されたハイドンの「ロシア四重奏曲」には
モーツァルトも非常に感銘を受け、彼としても約10年ぶりに1782年から1785年にかけて
弦楽四重奏曲(全6曲)」所謂「ハイドン四重奏曲」K.387,421(417b), 428(421b),458,464,465
をこの年26歳から30歳直前までに書き上げ、ハイドンに献呈することになるのである。
★モーツアルトの前作の弦楽四重奏曲は1773年に作曲した「ウィーン四重奏曲」(全6曲。K.168~173)であった。
★1782年12月に完成した「ハイドン四重奏曲(第1曲)ト長調 K.387の終楽章モルト・アレグロ(フーガ・フィナーレ)には
バッハ体験」が活かされているのである。

7月16日「後宮からの誘拐」がブルク劇場皇帝ヨーゼフ2世臨席のもと初演され、大成功を収めた。
★初演の成功を伝える父レオポルト宛の手紙は失われているが、このジングシュピールは1782年には合計12回、
翌83年には3回、いずれもブルク劇場で上演されたあと、さらにウィーンで27回(殆どがケルントナートーア劇場)
モーツァルトの生前に上演されている。ウィーン初演直後の1782年秋にはプラハ初演が行われ、83年には4都市
(ワルシャワ、ボン、フランクフルト・アム・マイン、ライプツィヒ)、84には5都市(マンハイム、カールスルーエ、ケルン、
ザルツブルク、シュヴェート)、85年から89年の間には約25都市で初演されるという人気を博したのである。

モーツァルトは父レオポルトに何度もコンスタンツェとの結婚に同意して欲しいと書き続けるので
あるがついに8月4日、レオポルトの同意が得られないまま、ウィーンの司教座大聖堂
シュテファン教会コンスタンツェ・ヴェーバー結婚式を挙げたのである。モーツァルトは
レオポルトに式の模様を次の様に語るのである。(1782年8月7日付書簡)

≪。。。ぼくらふたりが結ばれたとき、妻もぼくも、ともに泣き出してしまいました。出席者はみんな、
司祭さんまでがそれに感動して、涙を流しました。(中略)披露宴はすべてヴァルトシュテッテン男爵夫人が
用意してくれた夜食で行われましたが、それは本当に、男爵風というより王侯にふさわしいものでした。。。≫
モーツァルトは父レオポルトよりの結婚に同意する旨の書簡を挙式の翌日受けとったのである。



Costanze_Mozart_by_Lange_1782.jpg     Portrait-Of-Mozart at the piano.jpg
コンスタンツェ・モーツァルト(旧姓ヴェーバー、20歳)          ピアノに向かうモーツァルト(27歳) 
1782年                                 未完の肖像画 1783年        

★いずれの肖像画もコンスタンツェの姉アロイジアの夫である(モーツァルトの義兄)ヨーゼフ・ランゲ(Joseph Lange、
1751- 1831、俳優、アマチュア画家)によって描かれた。尚、この肖像画が描かれた時期をモーツァルトが30歳を
越えてからであるとする説もある。
★モーツァルトの未完の肖像画について小林秀雄は「創元」昭和21年12月号に発表した「モオツァルト」で次の様に述べている。
≪僕はその頃、モオツァルトの未完成の肖像画の写真を一枚もっていて、大事にしていた。それは、巧みな絵ではないが、
美しい女の様な顔で、何か恐ろしく不幸な感情が現れている奇妙な絵であった。(中略)人間は、人前で、こんな顔が
出来るものではない。(中略)ト短調シンフォニイは、時々こんな顔をしなければならない人物から生まれたものに間違いはない、
僕はそう信じた。≫
 
         ★★★★★         ★★★★★         ★★★★★

三幕のジングシュピール(ドイツ語歌芝居)「後宮からの誘拐」
”Die Entführung aus dem Serail” K.384

★邦題は「後宮からの逃走」としているケースが多々見受けられる。原題”Die Entführung”は
英語でも”The abduction"と訳されており、日本語では「誘拐」となる。

原作:
クリストフ・フリードリヒ・ブレッツナーの台本「ベルモンテとコンスタンツェ又は後宮からの誘拐
台本ゴットリープ・シュテファーニェが原作を改作したものによる。

背景など
神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の依頼により製作され、1782年7月16日、ウィーンのブルク劇場で初演された。ブルク劇場で
ドイツ語オペラを成功させるという、皇帝の長年の望みを果たすものであった。それ以前にこの劇場で成功したドイツ語オペラは、
外国語作品の模倣や翻訳によるものだけだったのである。
このオペラは、ジングシュピール(ドイツ語歌芝居)と呼ばれるジャンルに属する。劇はセリフによって進行し、
レチタティーヴォを欠いている。

あらすじ
18世紀、スペインのキリスト教徒の貴族ベルモンテの許婚コンスタンツェ、その侍女ブロンデ((ペドリッロの恋人でもある)
及びベルモンテの従僕ペドリッロの3人は海賊に誘拐されトルコに売られ、太守セリムの後宮に軟禁されている。ベルモンテは、
太守セリムの後宮にコンスタンツェ他2名を救出にやってくる。ペドリッロは後宮の番人オスミンに睡眠薬入りのワインをすすめ、
オスミンが眠っている間に、ベルモンテとコンスタンツェはやっと再会し、皆で脱走を企てるが、目を覚ましたオスミンに捕まり、
処刑されそうになる。さらにべルモンテの父は太守の生涯の敵であったことが判明するが、太守は「不正に対して善行をもって
報いる」と延べ、4人を放免し祖国スペインに送り返すと宣言する。トルコ近衛兵たちの「太守セリム万歳!」の合唱で幕
(第3幕フィナーレ)となる。

初演時の配役表
コンスタンツェ:カテリーナ・カヴァリエーリ(ソプラノ)
ブロンデ:テレーゼ・タイバー(ソプラノ)
ベルモント:ヨハン・ヴァレンティーン・アーダムベルガー(テノール)
ペドリロ:ヨハン・エルンスト・ダウアー(テノール)
オスミン:ヨハン・イグナーツ・ルートヴィヒ・フィッシャー(バス)
太守セリム:ドミニク・ヤウツ(俳優で歌う場面はない)
★この配役はその後コンスタンツェ役アロイジア・ランゲとなり、ベルモント役とペロリド役も替わるのである。


序曲
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団                  第2幕コンスタンツェのアリア「どんな苦難がまっていても
The London Philharmonic Orchestra               ”Martern aller Arten”
指揮:グスタフ・クーンGustav Kuhn                  コンスタンツェ:ヴァレリー・マスターソンValerie Masterson
     
                                   コンスタンツェは太守セリムの求愛を拒み、
                                   どんな苦痛にも屈しないと歌う。


第2幕ブロンデ(S)のアリア「何というよろこび             第3幕オスミンのアリア「それかちどきをあげろ
"Welche Wonne, welche Lust"                  ”O wie will ich triumphieren”
ブロンデ:パトリツィア・チョーフィ Patrizia Ciofi               オスミン:クルト・モル Kurt Moll
     
オーボエ協奏曲ハ長調(K.314/285d)第三楽章 ロンドー     モーツァルトがつかった最も低い声Low Dがこの曲に出てくる。
アレグロの第一主題と酷似している。                 
ペドリッロは恋人のブロンデに会い、ベルモンテが来て           4人は逃亡しようとしたが異変に気づいたオスミンに
逃亡の用意をしていることを伝える。ブロンデはその喜びを歌う。      囚われる。オスミンは得意満面で歌う。


映画「アマデウス」より
「後宮からの誘拐」3幕フィナーレ、トルコ兵の合唱
太守セリム万歳!”Bassa Selim lebe lange”」

★指揮をする得意満面のモーツァルト、観劇するヨーゼフ二世
バルコニー席(balkon)から観劇する小太りのウィーン宮廷楽団楽長
ジュゼッペ・ボンノ(1710-88)、楽師長アントニオ・サリエリ(1750-1825)、ソプラノ歌手(コンスタンツェを歌った)
カヴァリエーリ(Catharina Cavalieri 1760-1801,サリエリの愛人)などが登場しているブルク劇場での初演の場面である。
(実際の撮影はプラハのスタヴォフスケ劇場で行われた。)

     ★★★★★         ★★★★★         ★★★★★

1782年7月、元ザルツブルク市長の息子のジームクント・ハフナーが貴族に叙せられることになり、
その祝賀のための曲を書く様にとの依頼を父レオポルトより受け、多忙を極めていたため遅れは
したが、8月7日にすべて完成した。曲自体は行進曲を冒頭にもち、4楽章より多い形態の
セレナード」形式である。翌年1783年3月23日にブルク劇場で行われた演奏会用に交響曲
として(行進曲を削除、フルートとクラリネットを追加)書き改めたのである。

この年、自分の予約演奏会用にクラヴィーア協奏曲3曲を作曲している。次の作品である。
①クラヴィーア協奏曲(第11番)へ長調K.413(387a) 
②クラヴィーア協奏曲(第12番)イ長調K.414(385p)
③クラヴィーア協奏曲(第13番)ハ長調K.415(387b) 初演は1783年3月
★作曲順は12番、11番、13番の順で12番は新婚早々の秋に作曲、その他の曲は年末までに完成した。
★これら3つの協奏曲は管弦楽抜きの弦四部でも演奏できるように作曲されており、ただちに出版が計画された最初の協奏曲である。
但し、実際に出版されたのは1785年であった(アルタリア社により出版)。
★その他クラヴィーア協奏曲楽章(ロンド)イ長調K.386も10月に作曲している。


交響曲(第35番)二長調 「ハフナー」K.385            クラヴィーア協奏曲(第12番)イ長調K.414(385p)
第四楽章 プレスト                          第一楽章 アレグロ
ウィーン・フィルWiener Philharmoniker              ウラディーミル・アシュケナージVladimir Ashkenazy
指揮:カール・ベーム Karl Böhm                   The Royal Philarmonic Orchestra
     
第一主題には作曲時期が近い「後宮からの誘拐」の
オスミンのアリアと良く似たヴァイオリンのユニゾンの
旋律を置いている。

         ★★★★★         ★★★★★         ★★★★★

前述の「バッハ・ヘンデル体験」に刺激されたモーツァルトは1782年から翌年1783年にかけて
フーガ作品を集中的に作曲しており、多数の断片も遺されているが、現存する完全な作品としては
次が挙げられる。尚、皇帝ヨーゼフ2世もフーガ好きで知られていた。
クラヴィーアのためのプレリュードとフーガ ハ長調 K.394(383a) 1782年4月作曲。
2台のクラヴィーアのためのフーガ ハ短調 K.426 1783年12月29日作曲
5つの4声フーガ K.405 編曲時期:1782年
  バッハの「平均律クラヴィーア曲集第2巻」を弦楽四重奏曲用に編曲。

この年1782年にモーツァルトが出演した演奏会として確認されているのは次の通りである。
1.公開演奏会(劇場における演奏会)
  ①11月3日に弟子のアウエルンハンマー嬢がケルントナート劇場で開催した演奏会。
  ②野外演奏会として5月26日にアウガルテンで行われた第一回「愛好者演奏会」
    ★皇帝ヨーゼフ2世が1775年にアウガルテンの庭園を一般市民に開放し、そこで夏場に音楽会が開かれていた。
2.私的音楽会(主として貴族や富豪の邸宅で催される私的な音楽会)
  ①1782年12月4日にガリツィン侯爵邸での音楽会
  ②1782年12月14日トゥーン伯爵夫人邸
  ③1782年12月28日自宅(借家)にて小音楽会

その他記録に残されてはいないが多数の音楽会、演奏会でクラヴィーアを演奏したものと思われる。
かくして、1782年は音楽的にはモーツァルトの生前での大ヒット作となったドイツ語オペラ(ジングシュピール)
後宮からの誘拐」の作曲と上演、「バッハ・ヘンデル体験」「各種演奏会でのクラヴィーア演奏
作曲」、さらには「クラヴィーア教師」を精力的にこなし、私生活面ではコンスタンツェ
新婚家庭を築き、ウィーンでの音楽家としての活動の基礎固めを行った重要な年となったのである。



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前年1782年8月4日にウィーンで結婚式を挙げたモーツァルトは妻のコンスタンツェを帯同して
極力早い機会に最愛の父レオポルトと姉ナンネルの住むザルツブルク一時帰郷を実現したいと
考えていた。当初1782年11月に帰郷の準備をしていたが、コンスタンツェの妊娠と体調もあり
1783年に持ち越したのである。

★モーツァルトは1782年10月19日付の書簡で父レオポルトの命名の祝日である11月15日までに一時帰郷をしたいが、
年末は音楽会の季節でもあり多忙となるので翌年春に行くつもりであると語っていた。その後、11月13日付の書簡では
明日(11月14日)発とうとしていたが、コンスタンツェのひどい頭痛のため延期せざると得なくなったと父レオポルトに
連絡しているのである。

1783年の活動は1月4日に宮中顧問官シュビールマン氏の音楽会に出席することから始まり、
1月15日には「ウィーン新聞」に3曲のクラヴィーア協奏曲(K.413/387a, K.414/385p, K.415/387b)
筆写譜販売広告を出したのである。
クラヴィーア協奏曲(第11番)へ長調K.413(387a)(第12番)イ長調K.414(385p)(第13番)ハ長調K.415(387b)
いずれも前年1782年秋から末にかけて書かれた。
★この販売(3曲で4ドゥカーテン)は予約者が集まらず失敗に終わっている。

レオポルトには1月4日付で年初の手紙を書き、コンスタンツェと結婚できた暁にはザルツブルクの
教会にミサ曲を捧げるとの誓約を心の中でたてたが、そのミサ曲の半分は完成していると語るのである。
★K.427(417a)ミサ曲 ハ短調(キリエ、グローリア、サンクトゥス、ベネディクトゥスのみ完成、その他は未完) 作曲時期82年末~
83年5月頃。1783年10月26日聖ペテロ大修道院付属教会で演奏されることになる。

3月23日には皇帝ヨーゼフ2世臨席のもと、ブルク劇場公開演奏会を主催し、異常なほど熱烈な
好評を博し、大成功をおさめたのであるがこの演奏会の模様につき父レオポルトに次の通り
報告している。(1783年3月29日付書簡)

≪ぼくの演奏会の成功について、あれこれ語るまでもないと思います。たぶん、もう評判をお聞きに
なったでしょう。要するに、劇場はもう立錐の余地がないほどで、どの桟敷席も満員でした。
なりよりもうれしかったのは、皇帝陛下もお見えになったことです。そして、どんなに楽しまれ、
どんなにぼくに対して拍手喝采してくださったことか。(中略)なにしろ、皇帝のご満足は際限が
なかったのですから。25ドゥカーテンを賜りました。≫

上述のモーツァルトの書簡でこの演奏会のプログラムが記載されている。次の通りであり、
まず交響曲「ハフナー」K.385の最初の楽章(第1楽章から第3楽章)が演奏され、プログラムの
最後に再度同じ交響曲「ハフナー」の終楽章(第4楽章)で締めくくられる構成となっている。
その間、協奏曲、声楽曲(アリア)、独奏曲(モーツァルト自身による即興演奏を含む)など
盛り沢山な内容となっており、皇帝ならずとも大満足し得るプログラムなのである。

①「ハフナー交響曲」(K.385) (第1/2/3楽章)
②アロイジア・ランゲ夫人(ソプラノ、旧姓ヴェーバー)の独唱によるオペラ「イドメネオ」(K.366)の第11曲イーリアのアリア 「今やあなたが私の父」
③モーツァルトの独奏による「クラヴィーア協奏曲(第13番)ハ長調」(K.415/387b)
④アダムベルガー(テノール)独唱によるシェーナ「哀れな私は,どこにいるの"Misera, dove son!"」(K.369)
⑤コンチェルタンテ楽章:「ポストホルン・セレナード」(K.320)の第三楽章コンチェルタンテ・アンダンテ・グラツィオーソ
⑥モーツァルト独奏による、ロンド・フィナーレ(K.382)付の「クラヴィーア協奏曲 ニ長調」(K.175)
⑦タイバー嬢独唱による「ルーチョ・シッラ」(K.135)のジューニアのアリア
⑧モーツァルトのクラヴィーア独奏で小フーガ(即興演奏)と変奏曲2曲(K.398/416eK.455
⑨アロイジア・ランゲ夫人独唱によるレチタティヴォとアリア「わが憧れの希望よ、ああ、おまえはしらないのだ、その苦しみがどんなものか」(K.416)
⑩「ハフナー交響曲」(K.385)の終楽章

★変奏曲2曲:K.398/416a=≪パイシェッロのオペラ「哲学者気取り、または星占いたち」の「主よ、幸いあれ」による
6つの変奏曲 へ長調≫とK.455 =≪グルックの「メッカの巡礼たち」のアリエッタ「愚民の思うは」による10の変奏曲 ト長調≫

≪親愛なお父さん!おめでとう、あなたはお爺ちゃんになりました!きのうの朝、17日の6時半に、
愛する妻が、大きくて、元気な、ボールのようにまるまるとした男の子を無事出産しました。≫
(モーツァルトよりザルツブルクの父レオポルトへの1783年6月18日付書簡)

6月17日無事長男が誕生し、名づけ親(教父)となった友人の男爵ライムント・ヴェツラル・フライヘル・
フォン・プランケンシュテルンの名から「ライムント」と父レオポルトの名をとって「ライムント・レオポルト」と
名づけられた。目鼻立ちがモーツァルトに瓜ふたつで妻コンスタンツェ共々大喜びなのである。

この生後1ヶ月程の赤ん坊を乳母に預け、モーツァルトは7月末コンスタンツェを連れ、ザルツブルク
里帰りを果たすのである。コンスタンツェを父レオポルトと姉ナンネルに紹介し、結婚に際して生じた
気まずさを修復しようとの意図もあったのであろう。

故郷ザルツブルクには約3ヶ月ほど滞在し、家族で教会に行ったり、友人たちと音楽をしたり、オペラや
演劇を観たりして旧交を温めるのである。

ザルツブルクを発つ1日前の10月26日、聖ペテロ教会で「ハ短調ミサ曲」(K.427/417a)を捧げ、
コンスタンツェソプラノ・パートを歌った。ザルツブルク宮廷楽団や宮廷歌手が友情出演してくれたのである。
★聖ペテロ教会(ザンクトペーター教会又は聖ペーター僧院教会、St.Petersstiftskirche)ザルツブルクの守護聖人である
聖ルーペルトスが696年に開いたベネディクト派の教会であり、ドイツ語圏のなかでは最も古いとされる男子修道院に付属する教会。

翌27日ザルツブルクを発ったモーツァルト夫妻はランバッハを経由し30日にリンツに到着、旧知のトゥーン・
ホーヘンシュタイン伯爵邸で1ヶ月程を過ごすのである。わずか4日間で「リンツ交響曲」(K.425)を
作曲しリンツの劇場(フライハウス)で初演した。その後、リンツ滞在中にウィーンで演奏するため
クラヴィーア・ソナタ変ロ長調 K.333の作曲を手がけるのである。

★ヨハン・ヨーゼフ・アントン・トゥーン・ホーヘンシュタイン伯爵:(1711-1788)。リンツのフリーメイスン分団≪七賢人≫の主席であった。
★リンツ関連については弊記事ピアノ・ソナタ(第13番)変ロ長調 と動物たちをご参照。
★今回のザルツブルク一時帰郷がモーツァルトにとっては最後の帰郷となり、又、5歳年長の姉ナンネルと会ったのも今回が
最後となり、その後二度と再会することはなかったのである。

12月初め4ヶ月ぶりにウィーンに戻ったモーツァルト夫妻は、息子ライムント・レオポルトが3ヶ月以上も
前の8月19日に腸閉塞で死んだことを知らされたのである。12月6日の父宛の手紙にも、
≪ぼくら二人とも、あの哀れな、まる肥りの可愛い坊やの死をいたく悲しんでいます。≫
付記するのである。
★12月6日以前にもウィーン無事到着と長男の死をザルツブルクの父レオポルトに書いていると思われるが、
この書簡は消失している。

12月22日ブルク劇場でウィーン音楽芸術家協会の演奏会が催され、モーツァルトの新作の
レチタティーボとアリアあわれな男よ!夢なのか?あたり吹くそよ風よ "Misero! O sogno...
Aura, che intorno spiri"」(K.431/425b)をアダムベルガー(テノール)が歌い、モーツァルト
協奏曲を1曲演奏したのである。

12月29日には「二台のクラヴィーアのためのフーガ ハ短調」(K.426)を作曲しており、
モーツァルトが「クラヴィーアの国」と呼んだウィーンにおいて演奏家・作曲家として更なる飛躍の年
1784年を迎えるのである。
★フーガ ハ短調K.426:「バッハ・ヘンデル体験」に刺激を受けたモーツァルトのフーガ作品の一つ。


リンツの市街馬車.jpg     
1840年のリンツ "Linz"。 ドナウ川沿いに位置し、約70キロ北西にドイツのパッサウ、150キロ東にウィーンが
位置している。ウィーンとザルツブルクの路線上のほぼ中間地点にある。商工業都市として栄え現在はウィーン、
グラーツに続くオーストリア第三の都市である。


ブルク劇場は1778年から皇帝ヨーゼフ2世の方針により、ドイツ語オペラ(ジングシュピール)
を上演してきたが、3月4日、1782年から83年にかけてのオペラ・シーズン終了と共に
ドイツ国民劇場としての役割を終了し、イタリア語オペラの上演を再開することとなリ、
ジングシュピール上演はケルントナートーア劇場に移された。モーツァルトのジングシュピール
後宮からの誘拐」はブルク劇場におけるドイツ語オペラ最後のヒット作となったのである。

イタリア語オペラ再開の動きを敏感に察知したモーツァルトはイタリア語オペラの台本をあれこれ物色し、その数は
軽く百を越す」ものであった(5月7日付書簡)。7月末から帰郷するザルツブルク滞在中と12月初めにウィーンに戻ってから
次の二つのイタリア語オペラの作曲に手をつけるのであるがいずれも上演の当てのないオペラであることより、未完に終わっている。
尚、「カイロの鵞鳥」の台本作成を依頼したザルツブルクのジャンバティスタ・ヴァレスコ師(「イドメネオ」の台本作者)とは
モーツァルトの一時帰郷中に打ち合わせも行っている。
①2幕のオペラ・ブッファ「カイロの鵞鳥 ”L'oca del Cairo"」(K.422) 第1幕のフィナーレ前まで作曲。
②2幕のオペラ・ブッファ「騙された花婿 "Lo sposo deluso"」(K.430/424a)序曲と4曲のみ作曲。 

この時期のモーツァルトの主たる作品は次の通りである。

①クラヴィーア・ソナタ (第10番~13番)K.330~333
第10番ハ長調K.330 についてアインシュタインは「かつてモーツァルトが書いた最も愛らしいものの一つ」であると述べている。
第11番イ長調K.331第3楽章アラ・トゥルカ 「トルコ行進曲付」が抜きん出て有名ではある。
第12番ヘ長調K.332は全ソナタ中でも最も魅力的かつ優れた作品の一つとして評価する人は多い。
第13番変ロ長調K.333は1783年にリンツで≪リンツ≫交響曲完成の直後に書かれた。第12番と並ぶ傑作である。

②セレナード変ロ長調「グラン・パルティータ」(13管楽器のためのセレナード)K.361(370a)
1781年から84年の間に作曲されたとされている。

③弦楽四重奏曲「ハイドン・セット」
第15番ニ短調 K.421(417b)「ハイドン四重奏曲 第2番)」
第16番変ホ長調 K.428(421b) 「ハイドン四重奏曲 第3番」(新全集では第4番)

ホルン協奏曲(第2番)変ホ長調 K.417
ザルツブルク宮廷楽団のホルン奏者でモーツァルトの親友のヨーゼフ・イグナーツ・ロイトゲープは夫人の実家の家業(チーズ商)を
相続しウィーンに移住していた。モーツァルトはウィーンでもホルン奏者としても活動していたロイドゲープと親しく付き合い
彼のために1783年5月27日ホルン協奏曲(第2番)変ホ長調/86年(第4番)変ホ長調/87年(第3番)変ホ長調/91年(第1番)
二長調と4曲のホルン協奏曲を作曲するのである。(モーツァルトの最後の年1791年の協奏曲はモーツァルトの死によって
ロンド楽章が未完に終わっている。)

⑤「ミサ曲 ハ短調」K.427/417a (キリエ、グローリア、サンクトゥスと2曲のみの未完楽章としてクレード)

⑥ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲
ト長調K.423と変ロ長調K.424
ザルツブルクに一時帰郷中、ミヒャエル・ハイドンのために作曲したとされている。ハイドンが病気に
なり、大司教から依頼されたヴァイオリンとヴィオラのための6曲の二重奏曲を完成できずにいると
聞いたモーツァルトが不足分の2曲を代作してやり、ハイドンは自作の4曲の二重奏曲(MH335~338)
と合わせることで対応し得たのである。


クラヴィーア・ソナタ(第11番)イ長調K.331           セレナード変ロ長調「グラン・パルティータ」K.361(370a)
第3楽章ロンド・アラ・トゥルカ 「トルコ行進曲付」            (13管楽器のためのセレナード)
ウラディミール・ホロヴィッツ Vladimir Horowitz            第3楽章 アダージョ 変ホ長調
     
                                   楽器構成:オーボエ2、クラリネット2、バセット・ホルン2、
                                   ホルン4、ファゴット2、コントラバス

聖ペーター教会-1.JPG     
聖ペテロ大修道院付属教会で10月26日「ミサ曲 ハ短調      ミサ曲 ハ短調 K.427(417a) I.キリエ アンダンテ・モデラート
K.427/417aを初演                        指揮:ジョン・エリオット・ガーディナーJohn Eliot Gardiner 
(St.Petersstiftskircheザンクトペーター教会、           イギリス・バロック管弦楽団/モンテヴェルディ合唱団         
聖ペーター僧院教会とも呼ばれる。)               The English Baroque Soloists and the Monteverdi Choir  
★ザルツブルクの発祥の地ともいえる場所に立っており、
内部は18世紀にロココ様式に改修され、祭壇や天井・壁面などは
華麗な装飾が施されている。「聖ペテロの生涯」「十字架を背負うイエス」など、
キリストに関する多くの絵画が飾られており、華やかな中にも厳かな雰囲気をかもし出している。


弦楽四重奏曲(第15番)ニ短調 K.421 (ハイドン・セット第2番)     交響曲(第36番)ハ長調 K.425 「リンツ」
第一楽章 アレグロ・モデラート                       第4楽章プレスト         
フロンザレイ弦楽四重奏団 The Flonzaley String Quartet      ヘルベルト・フォン・カラヤンHerbert von Karajan
                                   ベルリン・フィルDie Berliner Philharmoniker
     
妻コンスタンツェの証言によればこの作品は彼女の初産の頃に
書かれ、そのうち第3楽章は83年6月17日の出産当日に作曲された。


リンツ関連記事
リンツで作曲された交響曲(第36番)ハ長調K.425 「リンツ」とピアノ・ソナタ(第13番)変ロ長調 K333について
ピアノ・ソナタ(第13番)変ロ長調 と動物たち 


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モーツァルトは「クラヴィーアの国」ウィーンに定住して4年目となる1784年を迎えた。

演奏会や出版などで必要な都度直ちに取り出すことが出来る様、2月から「私の全作品目録」と題した
自作目録」の作成を開始した。まず最初に記入した作品は、クラヴィーア協奏曲(第14番)変ホ長調
(K.449)で日付は2月9日と記載されている。
★この作品と4月に作曲されたクラヴィーア協奏曲(第17番)ト長調K.453はこの年から弟子となったバルバラ・フォン・ブロイヤー嬢
(1765-1811)のために作曲された。

2月26日から4月11日までの45日間にモーツァルトが父レオポルトに報告しているだけで25回の
演奏会でクラヴィーアを弾くのである(1784年3月3日付書簡)。
①ブルク劇場での公開演奏会が2回(1回を主催)
②トラットナーホーフ(トラットナー館)での公開演奏会が6回(3回を主催)
③ガリツィン侯爵邸の私的音楽会が毎週木曜で計5回
④エステルハージ伯爵邸の私的音楽会が毎週月曜と金曜で計9回
⑤ツィヒー伯爵邸、パールフィ伯爵邸、カウニッツ=リートベルク侯爵邸での演奏が各1回

午前中は弟子にクラヴィーアを教え、夜は殆ど毎日演奏し、更に、公開演奏会用に新しい作品を
書くのである。まさに引っ張りだこ・超多忙の売れっ子ピアニスト、モーツァルトなのである。

3月20日付で父レオポルトには予約演奏会(3月17日)の予約者リストを送付しているが、予約者は
174名に及び概要は次の通りである。
1.会員の性別
①男性会員:144名(83%)
②女性会員: 30名(17%)
2.身分
①高位貴族(伯爵家、公爵家一族):88名(50%)
②下位貴族(爵位買収者):74名(42%)
③市民階級:13名(8%)
3.職業
①高位官職者、宮廷職員関係者:12名(8%)
②ウィーン派遣外交官および宮廷代理人:18名(12%)
③枢密顧問官、宮中顧問官、参事官:33名(23%)
④その他の公務員:15名(10%)
⑤軍人:17名(12%)
⑥商人、工業家、銀行家:13名(9%)
⑦その他:37名(25%)

予約者リストによれば圧倒的に男性予約者が多いのは当時の社会身分制度によるものであるが、
2割近くを占める女性予約者たちは、高位高官者の夫人という身分の富裕階級であり、その多くが
モーツァルトと音楽を通じて親しくなった女性たちであり、ほとんどすべてが声楽やクラヴィーアを
たしなむ人たちであった。

これら予約者のうちフリーメイソン結社員は約40名、22%ほどの割合を占めているのである。モーツァルトは
この年12月14日にウィーンの分団「善行」に加わったが、それ以前に多数のフリーメイソンと交友関係に
あったのである。

4月29日には有名なマントヴァ出身の女流ヴァイオリン奏者ストリナザッキ(Regina Strinasacchi
1761-1829)のケルントナートーア劇場皇帝ヨーゼフ2世の臨席のもとに開かれた演奏会で
直前に作曲したヴァイオリン・ソナタ変ロ長調(K.454)を協演した。

★自作作品目録の日付は4月21日となっているが、この時書き上げたのはヴァイオリン・パートだけであり、モーツァルトの
クラヴィーア・パートは簡単な草稿を用いて記憶で演奏したとされている。

超多忙であった四旬節シーズンが明け、ほっと一息ついた頃の5月27日、モーツァルトは一羽の
ムクドリを購入した。このムクドリは、購入に先立つ4月12日にモーツァルトが前述の弟子のブロイヤー嬢
ために作曲した「クラビーア協奏曲(第17番)ト長調」(K.453)第三楽章の主題を見事に歌うのである。
モーツァルトがつけていた出納帳には"Vogel Stahrl 34 Kr.(椋鳥 34クロイツァー) ...
Das war schön!(お見事!)と記されている。(詳細は弊記事「モーツァルトと小鳥たち」をご参照)

ザルツブルクの姉ナンネル(当時33歳)が8月23日ザンクト・ギルゲンの地方管理官ベルヒトルト・
ツゥ・ゾンネンブルク(1736-1801)と結婚することになったが、これに先立つ8月18日モーツァルトは
5歳年上のナンネルにお祝いを述べると共に結婚の先輩として詩的アドバイスを書き送るのである。
≪。。。彼氏が不機嫌で、心あたりは何もないのに、渋面ばかりするならば、あなたは思えば
いいのです、あれは男の気まぐれと。そして彼氏に言うのです、「ご主人様、昼間はあなたの
お好きなように。けれども夜は、わたしのものよ。」≫ あなたの誠実な弟 W:A:モーツァルト

★ナンネルが結婚しザルツブルク市内の「モーツアルトの住家」いわゆる「タンツマイスターハウス」からザンクト・ギルゲン
(母マリア・アンナの生まれ故郷であった)に移り住んだので、父親レオポルトと娘ナンネルの間に文通が始められる。
このうちレオポルトの手紙が残されており、さまざまな情報を提供してくれることとなる。モーツァルトの手紙が
1784年夏頃から1787年5月まで現存しているのが非常に少ないことより、ナンネル宛のレオポルトの手紙で
モーツァルトのウィーンでの動向を多少なりとも知ることができるのである。(モーツァルトがレオポルト宛に出した手紙は
写しをとらずにナンネルに転送され、レオポルトにより保管されなかったことにもよる。)

9月21日には次男カール・トーマスが誕生した。
★次男は代父となったトラットナーホーフ(トラットナー館)の持ち主のヨハン・トーマス・フォン・トラットナーの名をとって
カール・トーマスと名づけられた。
★カール・トーマスは無事成長し、当初音楽家の道を歩んだが断念し、1810年ミラノのナポリ副王に仕える役人となり、
1858年10月31日に73歳の生涯をミラノで閉じた。

多忙さに比例して収入も飛躍的に増加し、29日にはグローセ・シューラー通り(現在のドームガッセ5番地、
ウィーンの中心地シュテファン大聖堂のすぐ裏)の豪華な家具付の借家(いわゆる「フィガロハウス」に
引っ越すのである。家賃は半年で230グルテンで、これまで住んでいた借家「トラットナー館」の家賃が
半年で75グルデンであったので3.5倍の家賃となったが、フィガロハウスは4つの部屋と2つの小部屋
及び台所がついており、4部屋を寝室、客間、仕事部屋と居間兼音楽室とし、さらに2つの小部屋も
ある立派なものであった。
この年にはアントン・ヴァルター製作のフォルテ・ピアノ(ヴァルター・フリューゲル)を購入し、その他、
ビリヤード台なども購入したのである。
★この頃、自家用馬車と乗馬用の馬も購入している。
★フィガロハウス:1784年9月29日(28歳)より1787年4月24日(31歳)まで住んだ借家で、ここで1986年(30歳)「フィガロの結婚」
(K.492)の作曲を完成したのでフィガロハウスと呼ばれている。モーツァルト夫妻が住んだ借家で唯一現存している建物で現在は
モーツァルトハウス・ウィーン”Mozarthaus Vienna"と呼ばれモーツァルト記念館となっている。
★アントン・ヴァルター製作のフォルテ・ピアノはモーツァルトの死後、コンスタンツェよりミラノに住む息子のカール・トーマスに
送られた。 1856年にカール・トーマスはそれをモーツァルテウム(国際モーツァルテウム財団)に寄贈し、現在は
「モーツァルトの生家」(ザルツブルク)に展示されている。

前述の通りモーツァルトは12月14日 フリーメイソンのロッジ(分団)の「善行」に入会した。
当時は皇帝ヨーゼフ2世の啓蒙主義的治世下にあってフリーメイソン全盛の時代でもあった。
フリーメイソンには貴族・学者・医師・富裕市民がこぞって入会したのである。
フリーメイソンの掲げる宗教ドグマを超越した態度、自己鍛錬による精神的な修業と向上、さらに、
「自由、博愛、平等」といった啓蒙主義、愛と理性による救済など思想的にモーツァルトは
強く惹きつけられたのである。

★フリーメイソンはもともとは中世の石工の組合を起源にした団体であることより、その位階は石工の徒弟制度に由来し、
第一位階が「徒弟」、第二位階が「職人」、第三位階が「親方(マスター)」と呼称される。モーツァルトは1784年12月14日に
入会後、1ヶ月未満の1785年1月7日に第二位階に昇進し、更に1週間で第三位階(マスター)に昇進したとされている。



DSC03640.JPG
フリーメイソンの集会(油彩画、前列右端の剣を左に置いているのがモーツァルトであるとされている。)


今やウィーンの社交界の寵児となったモーツァルトは上述の様に多忙な演奏活動
繰り広げるのであるが、モーツァルトの演奏会の呼び物は自作自演のクラヴィーア協奏曲なのである。

自ら主催したトラットナーホーフの計3回の予約演奏会で、2月から3月に完成したクラヴィーア協奏曲
第14番変ホ長調K.449第15番変ロ長調K.450第16番ニ長調K.451を披露し、4月12日には第17番 ト長調K.453
作曲した。
★トラットナーホーフ(トラットナー館):ウィーンの出版業者ヨハン・トーマス・フォン・トラットナーがグラーベンに建てた
巨大な建物の中にある会場。トラットナーの夫人はモーツァルトのクラヴィーアの弟子。

4月1日ブルク劇場で演奏会を主催、新作の「クラヴィーア五重奏曲」変ホ長調K.452ほかを
演奏して、好評を博した。この模様を父レオポルトに報告している。(1784年4月10日付書簡)

≪。。。三つの予約演奏会で、ぼくは大変な名声を得ました。劇場でのコンサート(注:4月1日ブルク劇場)
も非常に好評でした。二つの大きな協奏曲(注:K.450とK.451)を作曲しました。それから五重奏曲
(注:K.452)を一曲書いたのですが、これは異常に受けました。ぼく自身いまでも、これまで書いた
もののうちで最高だと思っています。それはオーボエ1、クラリネット1、ホルン1、ファゴット1、それに
ピアノ・フォルテという編成です。(中略)ぼく、弾きっ放しだったんで、最後には疲れましたよ。そして、
聴衆が決して疲れなかったことが、ぼくにとって少なからぬ名誉です。≫


クラヴィーアと木管楽器のための五重奏曲 変ホ長調 K.452     ヴァイオリン・ソナタ 変ロ長調 K.454
第一楽章 ラルゴ-アレグレット・モデラート                 第一楽章 ラルゴ・アレグロ
ヴァルター・ギーゼキング Walter Gieseking(P)           ピンカス・ズーカーマン Pinchas Zukerman(V)
フィルハーモニア管楽四重奏団 Philharmonia Wind Quartet    マーク・ナイクルグ Marc Neikrug(P)
     
1955年録音版                           ヴァイオリン奏者ストリナザッキと皇帝ヨーゼフ2世臨席の
                                   演奏会で共演した。

10月14日にはクラヴィーア・ソナタ(第14番b)ハ短調 K.457を作曲し、11月9日には「ハイドン・セット」
第4番となる弦楽四重奏曲(第17番)変ロ長調K.458を完成した。尚、この第4番は後世「」の愛称で
親しまれることになる。
★ソナタ(第14番b)ハ短調K.457は翌年1785年5月20日に作曲される幻想曲(ソナタ第14番a)ハ短調K.475と合わせて
1785年12月アルタリアから出版された。初版はモーツァルトの家主夫人でクラヴィーアの弟子でもあったマリア・テレジア・
フォン・トラットナーに捧げられた。
                                     弦楽四重奏曲(第17番)変ロ長調 K.458
クラヴィーア・ソナタ ハ短調 K.457                  「ハイドン・セット第4番」「狩」
第一楽章 モルト・アレグロ                        第一楽章アレグロ・ヴィヴァーチェ・アッサイ
ルドヴィグ・セメルジアン Ludwig Semerjian              アマデウス弦楽四重奏団 Amadeus Quartet
     
モーツァルトが1784年に購入したアントン・ヴァルター製の         1956年4月パリでの録画版     
フォルテ・ピアノとほぼ同じヴァルター製のピアノ(1789年製)で
演奏されている。

クラヴィーア協奏曲が最も実り豊かであったこの年後半には次の作品を完成させているのである。
クラヴィーア協奏曲(第18番)変ロ長調 K.456
  9月30日に完成。前年ザルツブルクに一時帰郷した際に知り合った優れた盲目の女性ピアニストのマリア・テレージア・フォン・
  パラディス(1759-1824)のために作曲され、翌年1785年2月16日に皇帝ヨーゼフ2世臨席の女性歌手ラスキの演奏会で
  モーツァルトにより演奏され、皇帝より「ブラボォー・モーツァルト」の賞賛の声がかけられた。
クラヴィーア協奏曲(第19番)へ長調 K.459 「第二戴冠式
  12月11日成立。1784年最後の作品であり、1790年10月15日、レオポルト2世のフランクフルト・アム・マインでの「戴冠式」を
  祝してモーツアルト自身が催した音楽会で演奏された可能性があるため「第2戴冠式協奏曲と呼ばれている。
  第1はまさにそのために作曲されたクラヴィーア協奏曲(第26番)K.537 「戴冠式」である。


クラヴィーア協奏曲(第18番)変ロ長調 K.456
第2楽章 アンダンテ・ウン・ポコ・ソステヌート ト短調
スヴャトスラフ・リヒテル Svastaslov Richter

第2楽章ト短調の変奏曲は、主題が2年後に完成する「フィガロの結婚」の
第4幕冒頭のバルバリーナのアリア「失くしてしまった”L'ho perduta”」に
良く似ている。


この年ウィーンのトッリチェッラ(Torricella)から次の3曲が組み合わされ出版されている。
クラヴィーア・ソナタ(第13番)変ロ長調 K.333(前年ザルツブルクに里帰りの帰路立ち寄ったリンツにて作曲に着手。)
クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ 変ロ長調 K.454(1784年4月作曲と初演。本記事に音源。)
クラヴィーア・ソナタ(第6番)二長調 K.284(ミュンヘンにて1775年2月か3月頃作曲。「デュルニッツ・ソナタ」とも呼ばれる。
 K.284についてはモーツァルトのミュンヘン旅行≪「偽の女庭師」作曲・上演の旅≫ご参照。


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父レオポルト、絶頂期のモーツァルト29歳を訪問(ウィーン⑤1785年)

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1785年の前半は前年に引き続き多数の演奏会をこなし、今やウィーンの社交界の寵児、超多忙のモーツァルトなのである。

前年12月14日に「徒弟(レアリング)」として入会したフリーメイソンのロッジ「善行 "Zur Wohltatigkeit"」で1月7日第二位階「職人(ゲゼレ)」に昇進し、同月14日には第三位階「親方(マイスター)」に昇進した。

1月10日には弦楽四重奏曲(第18番)イ長調 K.464( 「ハイドン四重奏曲第5番」), 更に14日には弦楽四重奏曲(第19番)ハ長調 K.465「不協和音」(「ハイドン四重奏曲第6番」)を書き上げ、1782年の大晦日に完成した弦楽四重奏曲(第14番)ト長調(K.387)(「ハイドン四重奏曲第1番」)以来じっくり書き上げてきた、「ハイドン四重奏曲(ハイドン・セット)」全6曲の完成をみたのである。

翌日1月15日には24歳年上のフランツ・ヨーゼフ・ハイドンを主賓として自宅に招待し、「ハイドン四重奏曲」の最初の3曲第1番ト長調K.387第2番二短調K.421/417b、第3番変ホ長調K.428/421b)を演奏したのであるが、ハイドンの感激はいかばかりであったであろうか。

2月11日(金曜日)、父レオポルトモーツァルトの招待に応え、ウィーンモーツァルト宅に到着した。レオポルトは1月28日ザルツブルクを発ち、ミュンヘンに1週間程滞在後、同地を2月7日弟子のハインリヒ・マルシャンと共に馬車で出発し、大雪に悩まされながらも、ランバッハなどを経てウィーンに無事到着したのである。

レオポルトはまずモーツァルトの家(注:所謂フィガロ・ハウス)が、必要な家財道具一切合切ついた立派な住居であることと高額家賃(460フローリン/年)に驚くのである。そして到着した日の晩にはモーツァルトの最初の予約演奏会に出かけ、その素晴らしさと身分の高い聴衆を目の当たりにし感激するのである。

2月12日(土曜日)、ハイドンとティンティ男爵がモーツァルト宅を訪問した。この日は新作のハイドン四重奏曲3曲が演奏された。ハイドンレオポルトに次の通り語るのである。

≪誠実な人間として神の御前に誓って申し上げますが、ご子息は、私が名実ともども知っているもっとも偉大な作曲家です。様式感に加えて、この上なく幅広い作曲上の知識をお持ちです。≫

★これら6曲の「ハイドン四重奏曲」はこの年9月1日初版(アルタリア版)に寄せたモーツァルトの全文イタリア語の献辞をもってハイドンに献呈された。尚、ハイドン・セット第5番(K.464)は後になってベートヴェンが筆写して研究するのである。

レオポルトが2月16日付でザルツブルクに滞在中の娘ナンネル(ゾンネンプール夫人)に宛てた手紙にウィーン到着後の様子が記述されているが、レオポルトは皇帝ヨーゼフ2世臨席の演奏会の模様を次の様に語るのである。

≪2月13日(日曜日)の晩にはブルク劇場でイタリアの歌手ラスキの音楽会がありました。(中略)おまえの弟はパリ用にとパラディスのために作った見事な協奏曲を一つ弾きました。私はたいそうお美しいヴュルテンベルク公爵令嬢から後ろに二つほどロージュを隔てていただけで、楽器の交替はすべてものすごくよく聞き分けられるという満足が得られたので、この満足感で目に涙が溢れたものでした。おまえの弟が退場すると、皇帝は手にお持ちの帽子で挨拶を送ってくださり、「ブラボォー、モーツァルト」とお叫びになられました。≫

★イタリアの歌手ラスキ嬢:ルイーザ・ラスキは1784年9月26日にブルク劇場でデビューした。ラスキは1786年5月1日初演の「フィガロの結婚」K.492 で伯爵夫人を歌い、1788年5月7日の「ドン・ジョヴァンニ」K.527のウィーン初演ではツェルリーナ役をつとめることになる。
モーツァルトが弾いた曲目についての詳細は不明であるが、「見事な協奏曲」とは前年1784年作曲した「クラヴィーア協奏曲(第18番)変ロ長調」(K.456)と考えられている。

ハイドンは2月11日にフリーメイソンの「真の協和」ロッジに入会し、モーツァルトの父レオポルトも今回ウィーン訪問中、4月6日にモーツァルトと同じ「善行」ロッジに入会した。ハイドンは入会後ロッジには出席しておらず、フリーメイソン用の作曲もしていないが、モーツァルトは極めて熱心でこの年多数のフリーメイソン用の作品を完成するのである。

レオポルトモーツァルトフォルテ・ピアノが12回も家(フィガロ・ハウス)から劇場や貴族邸に運び出され、毎日が演奏会であり、夜の1時前には眠ったことは一度もなく、9時前に起きることもなく、二時か二時半に食事をし、モーツァルトはいつも勉強か音楽か、書いたりしていることより、「私はどこへ行ったら良いのです?」と愚痴とも喜びともとれる息子モーツァルトの多忙ぶりを娘ナンネルに語るのである。(3月12日付書簡)

レオポルト2ヶ月半にわたりウィーンに滞在し、メールグルーペで6回催されたモーツァルトの予約演奏会をすべて聴き、モーツァルトに良く似たのカール・トーマス(前年1784年9月21日誕生)と過ごす喜びを持った後、4月25日に弟子のハインリヒ・マルシャンと共にウィーンを発ったのである。モーツァルトはウィーンから同行し、約10km程の所にあるブルカースドルフで見送ったのであるが、これが父と子の永遠の別れとなったのである。

レオポルトは、リンツを経由し、5月4日ミュンヘンに到着した。同地には1週間滞在した後、5月13日にはザルツブルクに帰郷したのである。7月27日にはレオポルトの住家で娘ナンネル(ゾンネンプール夫人)の息子が誕生している。
★この子供には祖父の名が与えられレオポルドゥス・アーロイス・パンタレオンと命名された。ナンネルは9月1日ザンクトギルゲンへと帰ったが、レオポルトは2年後に自分が世をさるまで手元において養育したのである。

皇帝ヨーゼフ2世フリーメイソンの啓蒙思想を自分の啓蒙主義改革に利用しようと考えその活動を容認したのであるが、ウィーンのロッジが予想以上の勢力拡大をとげてきたことに危機感を覚え、一転してフリーメイソンの抑制に乗り出したのである。まず手始めに「フリーメイソン勅令」を発布し、ウィーンの複数のロッジの段階的縮小・統合策をとり進めた結果、1787年には会員数も激減し、ロッジも「新・戴冠した希望」だけとなったのである。
モーツァルトは「フリーメイソン勅令」発布後も「新・戴冠した希望」に属して活動を続け、「洞窟」という新たなロッジ設立を目論んでいたとされている。


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フランツ・ヨーゼフ・ハイドン Franz Joseph Haydn             モーツァルト29歳のシルエット(1785年)
(1732年3月31日 - 1809年5月31日)                      レッシェンコールの版画
トーマス・ハーディによる肖像画 1792年作

★モーツァルトの影絵:版画家ヒエロニムス・レッシェンコールがシルエットに拠って1785年春に作成した版画作品。


この年1785年に作曲された主たる楽曲は、まず、1月10日弦楽四重奏曲(第18番)イ長調K.464(「ハイドン四重奏曲第5番」)が書かれ、続いて14日には弦楽四重奏曲(第19番)ハ長調K.465「不協和音」(「ハイドン四重奏曲第6番」)の完成をみている。

2月から3月にかけて、次の2曲のクラヴィーア協奏曲の傑作を完成した。
①クラヴィーア協奏曲(第20番)ニ短調K.466
②クラヴィーア協奏曲(第21番)ハ長調K.467

3月13日、ブルク劇場で催された音楽芸術家協会の演奏会で、モーツァルトのオラトリオ(カンタータ)「悔悟するダビデ」"Davide penitente"(K.469)がモーツァルト自身の指揮で演奏された。このオラトリオは2年前(1784年)にモーツァルが夫婦でザルツブルクに一時帰郷した際、聖ペテロ教会でコンスタンツェがソプラノ・パートを歌ったあのミサ曲ハ短調(K.427/417a)を転用し、新たに作曲した3曲を加えて完成している。作詞は、ダヴィデが神に罪を悔い改める内容の詩編をもとにダ・ポンテが改編作詞した。モーツァルトが新たに作曲したのは10曲中次の3曲であり、残り7曲はすべてミサ曲ハ短調より転用した。
①6番アリア:アンダンテ、変ホ長調 主よ、あなたはいかなる苦難のときも(避け所です)”A te, fra tanti affanni..."
②8番アリア:アンダンテ、ハ長調 暗き影の間から(光明がさす)”Fra l'oscure ombre funeste"
③10番合唱:アダージョ、ハ長調 神のみ依り頼む者は(苦難に陥ることはない)"Chi in Dio sol spera"

★独唱はアダムベルガー(テノール)とカヴァリエーリ(ソプラノ)それに第2ソプラノのエリザベート・ディストラーが受け持った。アダムベルガーとカヴァリエーリは「後宮からの誘拐」でそれぞれ「ベルモンテ役」と「コンスタンツェ役」を受け持った一流歌手である。演奏者は弦楽・管楽器奏者合わせて約90名、合唱30名、それに聖シュテファン教会などの少年聖歌隊員が加わり150名もの陣容であったとされている。

この年はフリーメイソン用に多数のリートやカンタータを集中的に作曲するが、最初のリートは3月26日に作曲した変ロ長調「結社員の旅"Gesellenreise"」K.468である。
★4月6日フリーメイソンに入会したレオポルトは4月16日に第2位階のゲゼレ(職人)に昇進した。この昇進儀式に歌われたのが「結社員(職人=Gesellen)の旅」であるとされている。


クラヴィーア協奏曲(第20番)ニ短調 K466
第二楽章 ロマンス 変ロ長調
フリードリヒ・グルダ Friedrich Gulda
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団                 クラヴィーア協奏曲(第21番)ハ長調 K.467
Munich Philharmonic Orchestra                 第二楽章 アンダンテ へ長調
     
映画「アマデウス」のエンドロールにこの楽章が流された。     第2楽章は1967年のスウェーデン映画『みじかくも美しく燃え                                            原題”Elvira Madigan”のBGMに使われた。

声楽曲の分野ではフリーメイソン以外にもいくつかのリート(ドイツ語歌曲)を作曲しているが、6月8日には名作「すみれ"Das Veilchen"」が書かれた。このリートはモーツァルトゲーテの詩に曲をつけた唯一の作品であるが、詩のストーリに応じ、ト長調アレグレットから始まりト短調に転調させるなど通作歌曲形式により歌詞の持つ物語の起伏を明確に展開・表現しているのである。

室内楽曲では10月16日にクラヴィーア四重奏曲ト短調(K.478)、そして12月12日にヴァイオリン・ソナタ変ホ長調(K.481)が作曲され、K.478は12月、K.481は翌年1786年にホフマイスター社より出版された。

リート「すみれ Das Veilchen」 K.476
作詞:ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
Johann Wolfgang von Goethe                 クラヴィーア四重奏曲ト短調 K.478 
エディット・マティス Edith Mathis(ソプラノ)              第一楽章 アレグロ   
小林道夫 Michio Kobayashi(ピアノ)                ベルニーニ・カルテット Quartetto Bernini
     
モーツァルトは最後に「可愛そうなすみれ、愛らしいすみれ        1785年12月ホフマイスターより出版。
だった」という2行を付け加えて作曲した。

★11月20日ホフマイスター社に10月16日作曲され12月に出版されたK.478の報酬の前借だと思われる借金を申しこんでいる。

オペラ・ブッファの最高傑作となる「フィガロの結婚」の台本を、この年の夏頃にはダ・ポンテが脱稿し、遅くとも10月までにはモーツアァルトに台本が渡されとされている。1782年の前作「後宮からの誘拐」(K.384)以来、新たなオペラ・ブッファの作曲を考え、種々台本を物色、検討していたモーツァルトの到達した案が、貴族と体制批判につながるとして当時皇帝ヨーゼフ2世により上演が禁じられていたボーマルシェの戯曲「フィガロの結婚」のオペラ化なのである。モーツァルトは宮廷詩人の任にあったイタリア人、ロレンツォ・ダ・ポンテにこの案を持ちかけ、ダ・ポンテが体制批判に繋がる箇所を削除・修正し、原作の戯曲が5幕のところを4幕にまとめ、台本を書き上げたのである。モーツァルトは翌年1786年上演に向けて作曲を開始した。

12月23日ブルク劇場で催された第2回クリスマス演奏会で、16日完成のクラヴィーア協奏曲(第22番)変ホ長調
K.482が演奏された。
★この第三楽章アレグロの冒頭数小節は映画「アマデウス」でモーツァルトがスキップをしながらウィーンの市場を軽快に歩むシーンで
BGMとして使用されている。




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モーツァルト30歳・「劇場支配人」と「フィガロの結婚」(ウィーン⑥1786年)

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前年1785年秋頃から「フィガロの結婚」の作曲に精力的に取り組んでいたモーツァルトに、皇帝ヨーゼフ2世より一幕のドイツ語喜劇「劇場支配人”Der Schauspieldirektor"」の台本が渡され、この喜劇の作曲をする様にとの依頼があった。

モーツァルトは「フィガロの結婚」を中断し、直ちに作曲にとりかかり、2月3日には「劇場支配人」の作曲を完了し、2月7日、シェーンブルン宮殿オランジュリー(熱帯植物用の大温室)で初演された。この初演は皇帝の義理の弟にあたるハプスブルク帝国(オーストリア)領南ネーデルランド(現在のベルギー)総督アルベルト公(ザクセン=テッシェン公)の来訪を祝して催された歓迎の宴で上演されたのである。
★アルベルト公:皇帝ヨーゼフ2世の妹マリア・クリスティーナの夫。

熱帯植物の木々と花の下に食卓が並び、オランジュリーの一角には舞台が設けられ、ここで「劇場支配人」が上演されたのである。他方、この上演が終わると別の一角に設けられた舞台でアントニオ・サリエリがこの宴のために作曲したイタリア語の一幕の音楽劇「はじめに音楽、次に言葉 "Prima la Musica e poi le Parole"」が上演された。
★この2つの演目は、その後2月11日、18日、25日の三日間にわたり、ケルントナートーア劇場で公開されている。

4月29日、オペラ・ブッファの大作「フィガロの結婚」が完成をみた。イタリア勢の上演阻止の各種陰謀もあったが、最終的に皇帝ヨーゼフ2世上演許可も取得し、5月1日、ブルク劇場モーツァルト自身の指揮により初演されたのである。

フィガロ」の上演が行われている間、劇場は観客で満杯となり、アリアだけではなく重唱までも喝采に応えてアンコールされた為、上演時間が非常に長くなり、これを憂慮した皇帝の指示により「アリア以外の曲のアンコールは禁止する」との通達が出された程、見事な成功を収めたのであった。

この成功を報告するモーツァルトから父レオポルト宛の手紙は失われているが、5月18日付のレオポルト(在ザルツブルク)から娘のナンネル(在ザンクト・ギルゲン)宛の手紙には次の通り記述されている。
《おまえの弟のオペラの再演(注:5月3日)では5曲が、それに再々演(注:5月8日)では7曲がアンコールされたが、そのなかで小二重唱曲は三回も歌わざるをえなかったのです。》

★ここで言及している小二重唱曲(Duettino)とは恐らく第3幕の伯爵夫人とスザンナの小二重唱曲「手紙の二重唱」”Sull' aria...(そよ風によせる...)のことであろうと思われる。因に、小二重唱曲は第一幕で3曲、第二幕で1曲、第3幕で1曲がおかれている。

フィガロの結婚」の台本を書いたロレンツォ・ダ・ポンテ(Lorenzo Da Ponte, 1749年3月10日 - 1838年8月1日)は、イタリアのヴェネト州でユダヤ人の家系に生まれた。元の名前はエマヌエーレ・コネリアーノ(Emanuele Conegliano)であったが14歳の時に一家がキリスト教に改宗した。そしてこの時、洗礼を行った司教ロレンツォ・ダ・ポンテの名前を名乗ることとなった。ダ・ポンテはのちに聖職に就き、ヴェネツィアで暮らした後、30歳の時(1779年)にウィーンに移住し、アントニオ・サリエリの口利きによって皇帝ヨーゼフ2世に宮廷詩人としての職を与えられた。
ダ・ポンテは、『フィガロの結婚』K.492(原作ボーマルシェ)の他、1787年『ドン・ジョヴァンニ』K.527、1790年『コシ・ファン・トゥッテ』K.588の台本を書くことになる。 尚、1783年モーツァルトの作曲が未完(序曲と4曲のみ作曲)で終わっている2幕のオペラ・ブッファ「騙された花婿 "Lo sposo deluso"」(K.430/424a)の作詞者もダ・ポンテであろうと推定されている。

モーツァルトは3年前、1783年5月7日付父レオポルト宛の書簡でダ・ポンテに関し次の通り言及しており、この頃から付き合いがあったのである。
≪当地には、ダ・ポンテ師とかいう詩人がいます。この人は、作品を劇場用に書き直す仕事を山ほどかかえています。サリエリのために、まったく新しい台本を義務として書かなくてはならず、それに 2ヶ月はかかるでしょう。そのあと、ぼくのために新しい台本を書いてくれると約束しました。≫

この年10月18日には三男が誕生し、ヨハン・トーマス・レオポルトと命名されたが、11月15日に痙攣性窒息で亡くなってしまった。わずか1ヶ月の命であった。この子供は聖マルクス墓地に埋葬された。

11月には当時ウィーンに在住していた英国人音楽家に誘われたのであろう、英国旅行を計画し、父レオポルトにカール・トーマス(当時2歳)と生まれたばかりの三男(上記死亡前の話)の二人の子供を預かって貰えないかと打診し、レオポルトはモーツァルトに対し、しっかりした書面での作曲報酬に関わる契約もなしに訪英することは極めてリスクが高い点も指摘し、この申し入れをきっぱり断っているのである。

★英国人音楽家とはフィガロの初演でスザンナ役となったナンシー・ストーラス(1765−1817)とその兄で作曲家のスティーヴン・ストーラス、1785年からモーツァルトに指事していた作曲家のトーマス・アットウッド(1765−1838)、フィガロの初演歌手であるアイルランド人の(マイケル・ケリー(1762−1826)の4名であり、この4人は翌1787年初頭に英国に帰国する予定になっており、モーツァルトは彼らに同行しようと考えたのであろう。

この年にも連続演奏会が計画され、その都度新作のクラヴィーア協奏曲が作曲されてはいるが、演奏会の回数は1784年、1785年に比べると減少しており、最終的に、ロンドン行きは断念しているわけではあるが、モーツァルトはウィーンでの先行きに不安を感じ、ロンドンで一旗揚げようと考えたのであろうか。

他方、ボヘミアの首都プラハのノスティツ劇場(現在のエステート劇場=スタヴォフスケ劇場)で12月「フィガロの結婚」が上演され大評判となった。その結果、モーツァルトプラハの識者愛好家協会よりプラハへの招聘状を受け取り、翌年1787年早々プラハ訪問を決断したのである。


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ミヒャエル広場とブルク劇場(右側中央の低い建物)

「劇場支配人」”Der Schauspieldirektor"K.486
全1幕10場から構成され、序曲のほかは、第7場と第8場にアリア、第9場に三重唱、そして10場(終幕)に四重唱と4曲がつけられているのみであり、6場までは演劇という変わった構成であるが、広義の意味から「オペラ」として扱われている。曲数は少ないがどの曲も当時のモーツァルトのみずみずしい技巧をあますところなくあらわにしている。

台本作者:
「後宮からの誘拐」の台本を準備(編作)したゴットリープ・シュテファニー(1741-1800)が書きおろした。

曲目と演奏者:
序曲は約4分。全曲は約30分。
序曲(プレスト ハ長調)
第1曲 アリエッタ「別れの時の鐘は鳴り」"Schon schlägt die Abschiedstunde" :③
第2曲 ロンド「若者よ、喜んで!」"Bester Jüngling!"④
第3曲 三重唱「私がプリマ・ドンナよ!」"Ich bin die erste Sängerin!" ②③④
第4曲 ヴォードヴィル(四重唱)「芸術家は誰も栄光を追求する」”Jeder Kunstler Strebt Nach Ehre” ①②③④

登場人物と初演当時の配役:
劇場支配人:フランク台本作者のシュテファニー
銀行家アイラー:ブロツクマン
俳優ブッフ①:ランゲ(モーツアルトの義兄、コンスタンツェの姉アロイージアの夫。宮廷俳優)B
俳優ヘルツ:ヴァイドマン
女優プファイル夫人:サッコ
女優クローネ夫人:アダムベルガー夫人
女優フォーゲルザンク夫人:シュテファニー夫人
歌手フォーゲルザンク②:アダムベルガー(当時著名なテノール歌手)T
女流歌手ヘルツ夫人③:ランゲ夫人(アロイージア)S
女流歌手ジルバークラング嬢④:カタリーナ・カヴァリエーリ(「後宮からの誘拐」の初演にもコンスタンツェを演じたウィーンの花形歌手)S

なお、歌手、女流歌手と俳優ブッフの4人(①―④)だけが歌い、他の登場人物は音楽そのものには関係なく、
6場までの芝居を行う。

★上演当日、カスティ作詞、サリエリ作曲のイタリア語オペラ・ブッファ「はじめに音楽、次に言葉」が上演されており、ドイツとイタリアの音楽劇を同時に観劇しようという趣向であった。
★2月11日、18日、25日にケルントナートーア劇場で公開されているが、3回上演されたのみで終り、モーツァルトの死後になって、多くの改作上演が試みられている。

あらすじ:
劇場支配人は宮廷から興行権を取得したので、まずはオーディションを行なおうとしている。 喜劇役者のブッフ(「滑稽」を意味する)氏と演目や配役について打ち合わせをしていると、興行のスポンサーである銀行家がやって来て、自分のお気に入りの女優を推薦する。当の女優も姿をみせて売り込みのために芝居を演じる。次に悲劇女優の夫人と俳優のヘルツ氏も売り込みに来て、二人でドラマの一部を演じる。最後に有名な女優フォーゲルザング夫人もやって来て、ブッフ(滑稽)氏を相手に得意芸を披露する。今度は歌手たちが売り込みにやって来る。まず現れるのはヘルツ(心)夫人で、ヘルツ夫人はその名の通りアリエッタを心をこめて歌い興業主を大いに満足させる。そして、次にジルバークラング(銀の響き)嬢が現れて、銀の鈴をころがすような声を披露する。最後にテノールのフォーゲルザング(鳥の声)氏も登場するが、彼はヘルツ夫人とジルバークラング嬢のプリマ・ドンナ争いに巻きこまれてしまう。しかし、事態は一転、「芸術のために調和が大切であり、力を合わせよう」と四重唱で歌い終幕となる。

1幕の音楽付き喜劇                         劇場支配人 Der Schauspieldirektor」K.486より
劇場支配人 Der Schauspieldirektor」K.486           ジルバークラング嬢のアリア
序曲                                 若者よ、喜んで!Bester Jüngling!
ロッテルダム合奏団 The Rotterdam Ensemble.           アンドレア・ロスト Andrea Rost(ソプラノ)
     

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5月1日にブルク劇場モーツァルト本人の指揮により「フィガロの結婚」が初演された。このオペラ・ブッファについては末尾記載の特集記事をご参照。このオペラについての当時の周辺状況は次の通りである。
1)フランスの劇作家カロン・ド・ボーマルシェの書いた風刺的な戯曲で正式な題名は『狂おしき一日、あるいはフィガロの結婚』(La Folle journée, ou le Mariage de Figaro)。この戯曲は1784年にパリで初演されフランス革命前夜の知識人・民衆に、戯曲の痛烈な旧体制批判が大いにアピールし、大評判となった。尚、戯曲は3部作からなっており①「セビリアの理髪師」②「フィガロの結婚」③「罪の母」という構成である。 2)ジョヴァンニ・パイジエッロ(Giovanni Paisiello, 1740年5月9日 - 1816年6月5日)が《セヴィリアの理髪師 Il Barbiere di Siviglia》のオペラ化を完成させ、このオペラの人気はヨーロッパ中を席巻した。1782年にはウィーンでも上演され大評判となった。1816年(パイジエッロの没年)にジョアキーノ・ロッシーニが、パイジエッロと同じ台本に曲付けし、パイジエッロを凌いでしまったという経緯がある。 3)ウィーンでも戯曲「フィガロの結婚」を上演すべしとの声があがっていたが、皇帝は「体制批判、革命促進につながる」としてこの上演を禁じた。因に、シカネーダーが上演許可を求めたが、これを却下している。 モーツァルトはこういった経緯を承知の上で、「フィガロの結婚」のオペラ化ダ・ポンテと共に推進したのである。
左画像は1786年12月プラハ初演時のリブレット(台本)。タイトルは”Le nozze di Figaro, o sia la folle giornata”「フィガロの結婚、あるいは、狂おしき一日」となっている。


フィガロの結婚特集記事
フィガロの結婚(その1)序曲+第一幕第一景第一曲
フィガロの結婚(その2)第一幕
フィガロの結婚(その3) 第二幕
フィガロの結婚(その4)第三幕
フィガロの結婚(その5) 第四幕(終幕)

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この年前半に作曲された主たる楽曲は次の通りである。(括弧内は完成月日)
① クラヴィーアのためのロンド ニ長調 K.485 (1月10日)
② クラヴィーア協奏曲(第23番)イ長調 K.488 (3月 2日)
クラヴィーア協奏曲(第24番)ハ短調 K.491 (3月24日)
クラヴィーア四重奏曲 変ホ長調 K.493  (6月3日)
ホルン協奏曲(第4番)変ホ長調 K.495 (6月26日)
★4月7日ブルク劇場で大音楽会が開催されており、ここで新作(3月24日)の「クラヴィーア協奏曲(第24番)ハ短調が演奏されたのであろう。
★ホルン協奏曲(第4番)変ホ長調 K.495はモーツァルトの親友であり、ホルンの名手のヨーゼフ・イグナーツ・ロイトゲーブの為に書かれた傑作である。


クラヴィーアのためのロンド ニ長調 K.485            クラヴィーア協奏曲(第23番)イ長調 K. 488
ウラディミール・サモイロヴィチ・ホロヴィッツ               第一楽章 アレグロ
Vladimir Samoilovich Horowitz                 ゾルターン・コチシュ Zoltán Kocsis
     
                                   指揮:イエジ・ビエロフラーヴェク Jirí Behlohlávek
                                   ヴィルトゥオージ・ディ・プラハ(室内楽団)
                                   Virtuosi di Praga (Chamber Orchestra)


この年、後半には次の様な作品が生まれている。

①「クラヴィーア三重奏曲変ホ長調K.498《ケーゲルシュタット・トリオ(Kegelstatt Trio)》
8月5日作曲。通常クラヴィーア三重奏曲はクラヴィーア、ヴァイオリン、チェロという編成が一般的だが、この《ケーゲルシュタット・トリオ(Kegelstatt Trio)》と呼ばれる作品は、クラヴィーア、クラリネット、ヴィオラという楽器で演奏される。変わった編成ではあるが、モーツァルトが親しくしていたジャカン家で行われる音楽の集まりのために作曲され、そのジャカン家の娘フランツィスカがクラヴィーアを、アントン・シュタードラーがクラリネットを、そしてヴィオラをモーツァルトが受け持って演奏されたと伝えられている。ケーゲルシュタット(「九柱戯」)はボーリングの様な当時の遊びでモーツアァルトの自筆譜に「この遊びをしながら」と記載されていることより「ケーゲルシュタット・トリオ」と呼ばれる様になった。

弦楽四重奏曲(第20番)ニ長調 K.499 「ホフマイスター」
8月19日作曲。1ヶ月後にはこの曲のみ単独でホフマイスターより出版されたことからこの愛称で呼ばれている。

クラヴィーア三重奏曲 変ロ長調 K.502
11月18日完成。モーツァルトは13曲のクラヴィーア三重奏曲を遺しているが、この作品は、1788年7月に完成するハ長調K.548と並び最高峰を飾る一作である。

クラヴィーア協奏曲(第25番)ハ長調(K.503) 
12月4日完成。この年の冬のシーズン(クリスマス前の4週間から始まる待降節)に全4回の演奏会をトラットナー館で開催しており、この演奏会用に作曲されたものであるとされている。

1784年に6曲ものクラヴィーア協奏曲を作曲し、演奏会をはなばなしく飾ったクラヴィーア協奏曲も1785年には
3曲、そしてこの年86年にも3曲が作曲されたのであるが、この第25番以降は1788年までクラヴィーア協奏曲は作曲が中断するのである。これはとりもなおさず、演奏会開催が激減したことを反映しているのである。
★クラヴィーア協奏曲は1788年2月に第26番(ニ長調K.537)が作曲され、そしてモーツァルト最後の年1791年1月の第27番(変ロ長調K.595)が最後のクラヴィーア協奏曲となるのである。

交響曲(第38番)ニ長調「プラハ」(K.504)
12月6日の日付で「自作目録」に記載された久々の交響曲である。この年の待降節(クリスマス前の4週間)に開かれた演奏会のために書かれたのであろうとされている。モーツァルトはこの交響曲を翌年プラハで、1月22日の「フィガロ」上演に先立ち、19日に開かれた演奏会で初演したことより「プラハ」の愛称がつけられた。

弦楽四重奏曲(第20番)ニ長調 K.499          交響曲(第38番)ニ長調「プラハ」K.504
「ホフマイスター」第一楽章 アレグレット                  第一楽章アダージョ/アレグロ
モザイク弦楽四重奏団 Quatuor Mosaiques             チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
     
                                   指揮:マンフレッド・ホーネック Manfred Honeck
                                   Czech Philharmonic Orchestra

★交響曲(第38番)ニ長調「プラハ」K.504の演奏画像(YouTube)の劇場は、プラハに1781年から1783年にかけて建設されたエステート劇場"The Estates Theatre"(チェコ語ではStavovske divadlo=スタヴォフスケ劇場)であり、モーツァルトの時代にはノスティツ劇場(ノスティツ伯爵の所有であったことによる)と呼ばれていた。この劇場でモーツァルトは交響曲「プラハ」を初演し、「フィガロの結婚」や「ドン・ジョヴァンニ」のプラハ初演が行われたのである。この劇場は第二次世界大戦後の共産主義ー社会主義政権の時代にはチェコ演劇界の大立役者であるヨーゼフ・カイエターン・ティル(1808-56)の名を冠し、「ティル劇場」と呼ばれたが、1992年12月「スタヴォフスケ劇場(エステート劇場)」の呼称に戻されたという経緯がある。尚、映画「アマデウス」の劇場シーン撮影にはこの劇場が使用されている。



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1787年1月8日、モーツァルトは妻のコンスタンツェと数人の友人と共に馬車でウィーンを発ちプラハにむかった。前年12月プラハで「フィガロの結婚」が上演され、大評判となっており、同地の識者愛好家協会の招待に応えてのプラハ訪問である。
★モーツァルト夫妻の同行者は、この旅行の一年後にコンスタンツェの長姉ヨーゼファと結婚するフランツ・デ・パウラ・ホーファ−(1755-96、宮廷楽団ヴァイオリン奏者)とアントーン・パウル・シュタードラー(宮廷楽団クラリネット奏者)を含む5名の友人と従僕のヨーゼフである。

一行は1月11日プラハに到着した。モーツァルトはウィーンの親友ゴットフリート・フォン・ジャカンにプラハでの「フィガロ熱」について次の通り語るのである。(1787年1月15日付書簡)
(舞踏会では)。。。生粋のコントルダンスやドイツ舞曲に編曲したぼくのフィガロの音楽にのって、心から楽しそうに飛び跳ねているのを見て、ぼくはすっかりうれしくなった。なにしろここでは、話題といえば「フィガロ」で持ちきり。弾くのも、吹くのも、歌うのも、そして口笛も「フィガロ」ばかり。「フィガロ」以外 ほかのオペラになんか目もくれないんだ。明けても暮れても「フィガロ」、「フィガロ」。たしかに、ぼくには大変な名誉だよ。》

1月17日モーツァルト夫妻列席のもとで「フィガロの結婚」がノスティツ劇場で上演され、19日にはモーツァルトの公開演奏会が同劇場で開かれた。公開演奏会では前年暮に作曲された交響曲(第38番)ニ長調「プラハ」(K.504)が演奏され、即興演奏3曲を披露している。最後の曲はプラハで大人気のフィガロのアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々”Non più andrai, farfallone amoroso”」の主題による変奏であり、劇場は興奮の渦に包まれたのである。
★ノスティツ劇場:モーツァルトの時代には所有者のノスティツ伯爵の名前からこう呼ばれた。その後スタヴォフスケ劇場となり、第二次世界大戦後の社会主義体制ではティル劇場と名称変更され、1992年12月再度スタヴォフスケ劇場(英名:エステート劇場)に戻され今日に至っている。

演劇興行師ボンディーニから次のシーズンのためのオペラの作曲を依頼され、2月8日「フィガロ」で持ち切りのプラハを発ちウィーンには2月12日頃に戻ったのである。

モーツァルトは「フィガロの結婚」の台本作者ロレンツォ・ダ・ポンテと協議し次回のオペラは「ドン・ジョヴァンニ」を題材とすることを決定し、ダ・ポンテは急ピッチで筆を進め、5月半ばには台本を完成させた。モーツァルトは3月には台本の一部を受け取り直ちに作曲に取りかかった。

ドン・ジョヴァンニ」の作曲を開始したとほぼ時を同じくして、ザルツブルクでは父レオポルトが病に倒れた。これを知らされたモーツァルトレオポルトに4月4日付で自分の死生観を織り込んだ書簡を発信するのである。
《あなたご自身から快方に向かっているという安心の手紙をぼくがどれほど切望しているか、お伝えするまでもないでしょう。常にぼくはあらゆることに最悪を想定することに慣れてはいるのですが。 死は(厳密に言えば)ぼくらの人生の真の最終目標ですから、ぼくはこの数年来、この人間の真の最上の友とすっかり慣れ親しんでしまいました。その結果、死の姿はいつのまにかぼくには少しも恐ろしくなくなったばかりか、大いに心を安め、慰めてくれるものとなりました!そして、死こそぼくらの真の幸福の鍵だと知る機会を与えてくれたことを(ぼくの言う意味はお分かりですね)神に感謝しています。ぼくは(まだ若いとはいえ)ひょっとしたらあすはもうこの世にはいないかもしれないと考えずに床につくことはありません。でも、ぼくを知っている人はだれひとり、ぼくが不機嫌だとか悲しげだとか言えないでしょう。そして、この仕合わせを毎日ぼくは創造主に感謝し、隣人のひとりひとりにもそれが与えられるよう心から祈っています。(中略)ぼくがこの手紙を書いている間にも、あなたが快方に向かわれるよう願い望んでいます。》
★この手紙がモーツァルト父レオポルトに宛てた最後の手紙となったのである。尚、この手紙に記述されている死生観フリーメイソンの思想から来ているとされている。

4月24日、約3年間住んだウィーン中心地にある豪華な借家(フィガロ・ハウス)を明け渡し、ウィーン市壁外の庭付きの借家に引っ越した。次第に経済的圧迫を感じ、家賃の安いところに移り住んだものと思われる。この引っ越しについて父レオポルトにはその理由を説明せず、新しい住所を連絡しているが、レオポルトは5月10日付でザンクト・ギルゲンの娘ナンネル(ゾンネンプール夫人)にモーツァルトの引っ越し先の住所を伝えるとともに引っ越しについては《彼はその理由を私には書いていません。なにひとつです!残念ながら、わたしにはそれが推測できます。》と語っており、この書簡がレオポルトが書いた最後の書簡となったのである。

レオポルトは、ザンクト・ギルゲンから駆けつけた娘のナンネル(ゾンネンブール夫人)の献身的な看病にも拘らず5月28日帰らぬ人となった。享年67歳であった。

6月4日、モーツァルトが約3年間可愛がってきたムクドリが死んだ。モーツァルトはこのムクドリに寄せた哀悼の詩を綴り、数人の友人を葬送行進がしたいからと自宅に招待し、全員で葬送の曲を歌いながら行進した。父レオポルトの死に対するモーツァルト独特の哀悼の表現でもあったのであろう。
★このムクドリと哀悼の詩などについては弊記事「モーツァルトと小鳥たち」をご参照。

4月、ボンの宮廷に仕えていた当時16歳のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1872)が初めてウィーンを訪れ、二週間程滞在した。この間モーツァルトを訪問したという伝記もあるが、最愛の母マリアの病状悪化の報を受けボンに急遽戻っている。当時のケルン大司教選帝侯マクシミリアン・フランツ(在位:1784年 - 1801年)皇帝ヨーゼフ2世の一番下の弟であり、モーツァルトを高く評価していたこともあり、ケルン宮廷(所在地:ボン)に当時仕えていた少年ベートーヴェンに対し、モーツァルトへの弟子入りを命じた可能性はある(モーツァルトに弟子入りを承諾されたとしているベートーヴェンの伝記作家もいるが、確証があるわけではない)。
★ベートーヴェンのフランドル生まれの祖父も父親もボンのケルン選帝侯の宮廷音楽家であった。

5月中旬頃にダ・ポンテは「ドン・ジョヴァンニ」の台本を完成しており、モーツァルトは序曲と第二幕のフィナーレを含む全体の約三分の一の作曲を仕上げ、10月1日コンスタンツェと共に再びプラハへと旅立ったのである。
プラハ側としてはこのオペラを、皇帝ヨーゼフ2世の姪マリア・テレジアのプラハ訪問の祝賀用に上演したかったのであるが、準備の遅延により、ヨーゼフ2世の指示もあり歓迎の催し物はオペラ「フィガロの結婚」となり、 10月14日モーツァルト本人の指揮によりノスティツ劇場で再演された。
★マリア・テレジアは皇帝ヨーゼフ2世の弟で当時トスカーナ大公であったレオポルト1世の娘。尚、レオポルト1世は1790年皇帝ヨーゼフ2世崩御の後レオポルト2世として神聖ローマ皇帝となる。

プラハ滞在中モーツァルトは旧知のフランツ・クサヴァー・ドゥーシェク夫妻と再会し、自宅やヴァルタヴァ河左岸の丘地にある別荘「ベルトラムカ荘」に招待され、この別荘を「ドン・ジョヴァ二」作曲のために提供してもらった。
★この別荘は現存しており、モーツァルト博物館となっている。

さまざまな事情で予定から半月遅れの10月29日2幕のオペラ・ブッファ(ドランマ・ジョコーソ)罰せられた放蕩者、あるいは、ドン・ジョヴァンニ」”Il dissoluto punito, o sia il Don Giovanni” がノスティツ劇場モーツァルト自身の指揮で初演され、大喝采を博したのである。
モーツァルトは11月4日付の手紙で親友ジャカンに「大変な拍手喝采を受けた」と伝えると共に「きのう、4回目の(しかも上がりはぼくの収入になる)上演が行われた。」と語っている。

かくしてモーツァルト夫妻はプラハ滞在を終え、明確な記録は残されていないが、おそらく11月13日にプラハを発ち、16日にはウィーンに帰着したのである。その前日15日に宮廷音楽家グルックがこの世を去ったのである。このグルックの死を契機として皇帝ヨーゼフ2世は宮廷楽団の再編成に取り組むのである。
★クリストフ・ヴィリバルト・グルック(Christoph Willibald (von) Gluck, 1714年7月2日 - 1787年11月15日)女帝マリア・テレジアの宮廷楽長を務め、35曲程の完成したオペラを作曲し、オペラの改革者として歴史に名を残している。

先ず12月1日付をもってモーツァルトは宮廷音楽家に任命され、年俸800グルテンの支給が決定したのである。1781年モーツァルトがザルツブルク大司教宮廷楽団を退任した時からの念願であったウィーン宮廷への奉職の夢が7年目にしてやっと実現したのである。父レオポルトが存命であればその喜びはいかばかりであったであろうか。
★任命書と辞令には宮廷音楽家と明記されているが、1789年及び91年の「宮廷職員名簿」にはモーツァルトは《皇王室宮廷音楽家》の中の《作曲家》にリスト・アップされている。

12月27日モーツァルトの長女(第4子)テレジア・コンスタンツィア・アーデルハイト・フリーデリケ・マリア・アンナが誕生した。
★しかし、この娘は翌88年6月29日に亡くなってしまうのである。  

政治的にはこの年ロシア帝国のエカチェリーナ大帝の対オスマン帝国(トルコ)戦争(第2次)が始まり、1792年まで続くことになる。オーストリア帝国ロシアとの同盟に基づきロシアを支援すべく、1788年2月、参戦したのである。皇帝ヨーゼフ2世は啓蒙専制君主として、「上からの改革」を通じて身分制社会の構造を切り崩し、均質な国民を創出せんとして貴族勢力の弱体化を図りつつ商工業を発達させ、富国強兵・王権強化を図ったが、その改革の多くは抵抗勢力に阻まれていた。特にハンガリー南ネーデルランドといったハプスブルク(オーストリア)帝国領内で反体制運動が活発化するのである。かような時期にオスマン帝国との戦争が勃発し、貴族はその領地に戻ったり、出征したりするのである。又、戦争により物価が高騰し、ウィーン市民の生活を圧迫するのである。こういった政治・社会情勢にも大きく影響され、モーツァルトの演奏会の開催が次第に困難になって行くのである。


Lorenzo_da_Ponte.jpg     Don Giovanni.jpg     
ロレンツォ・ダ・ポンテ(版画)                    ドン・ジョヴァンニをプラハ初演で歌ったLuigi Bassi
19世紀初頭

★右上の絵は「ドン・ジョヴァンニ」の第二幕でドン・ジョヴァン二(バリトンのルイギ・バッシ)が気に入った女性の窓の下でセレナータ「さあ、来ておくれ、窓辺へ"Deh vieni alla finestra"」 を歌っているシーンを描いたものである(末尾音源ご参照)。尚、ルイギ・バッシLuigi Bassiは「フィガロの結婚」のプラハ初演でアルマヴィヴァ伯爵も歌っている。


この年の主な作品としては次があげられる。

6つのドイツ舞曲 K.509 
2月6日作曲。「フィガロの結婚」で沸き立つプラハで、パハタ伯爵に招待された夕食会の前の1時間で作曲、その日の舞踏に供したとされている。

クラヴィーアのためのロンド イ短調 K.511
3月11日完成。静かな哀愁を帯びた美しい作品。

弦楽五重奏曲 ハ長調 K.515
4月19日作曲。1773年以来15年ぶりの五重奏曲作品。全体で1149小節というモーツァルトの器楽曲中最大規模を有す。

弦楽五重奏曲 ト短調 K.516
5月16日作曲。 アンリ・ゲオンHenri Gheonがその著「モーツァルトとの散歩Promenades avec Mozart.」で《フルート四重奏曲ニ長調K.285第1楽章アレグロは、無二の傑作『弦楽五重奏曲ト短調』K.516の冒頭部アレグロの最高の力感のうちに見出される新しい音を時として響かせている。それはある種の表現しがたい苦悩で、「流れゆく悲しさ”tristesse allante”」、言い換えれば、「爽快な悲しさ”allegre tristesse”」とも言えるテンポの速さと対照をなしている。》と述べ、小林秀雄はその著「モオツァルト」において、ゲオンの言う”tristesse allante”を「疾走する悲しさ」として捉え、弦楽五重奏曲ト短調K.516第一楽章アレグロに適用の上言及し、この作品を一躍有名にした。

音楽の冗談 ヘ長調 K.522
6月14日完成。ユーモラスな曲であるが、1785年には第一楽章のパート譜を書き始めていたとされている。

リート9曲(ウィーンで7曲、プラハで2曲)がこの年作曲されているが、代表作としては次が揚げられる(作曲はいずれも6月24日)。
ラウラに寄せる夕べの想い K.523
クローエに K.524

セレナード ト短調 K.525 「アイネ・クライネ・ナハトムジーク
8月10日作曲。モーツァルトのセレナードの中で最も人気が高い作品。第一楽章アレグロと第二楽章ロマンツェの間にかってはメヌエットとトリオが存在したとされている。第三楽章がメヌエットとトリオだが、もうひとつ楽章としてメヌエットとトリオがあったが、紛失している。

ヴァイオリン・ソナタ イ長調 K.526
8月24日作曲。少年時代にロンドンで親しく接したアーベル(Karl Friedrich Abel)が6月20日に没しており、アーベル追悼の気持ちから、第三楽章のロンド主題をアーベルのソナタ作品に求め作曲したのではないかとされている。モーツァルトの協奏的二重奏ソナタの最高峰を飾る作品である。

ホルン協奏曲(第3番)変ホ長調 K.447
1787年に作曲された作品であるとされているが、月日は不明。4曲のホルン協奏曲中の最高傑作である。


                                   弦楽五重奏曲 ト短調 K.516
セレナード ト長調 K.525                      第一楽章 アレグロ
「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」                アマデウス四重奏団 & セシル・アロノヴィッツ(ヴィオラ)
第一楽章 アレグロ                         Amadeus Quartet with Cecil Aronowitz, viola
                                                    1966年録画版(於ロンドン)     


ヴァイオリン・ソナタ イ長調 K.526
第一楽章 モルト・アレグロ
アルテュール・グリュミオー Arthur Grumiaux(V)          ホルン協奏曲(第3番)変ホ長調 K.447 
クララ・ハスキル Clara Haskill(P)                  第二楽章 ロマンツェ ラルゲット
     

         ★★★★★     ★★★★★     ★★★★★

2幕のオペラ・ブッファ(ドランマ・ジョコーソ)罰せられた放蕩者、あるいは、ドン・ジョヴァンニ」”Il dissoluto punito, o sia il Don Giovanni” K.527:
10月29日プラハ(ノスティツ劇場)初演
ドン・ジョヴァンニ特集記事をご参照。本記事では次をとりあげておきます。

①第2幕ドン・ジョヴァンニが目をつけた女性(ドンナ・エルヴィーラの美しい召使い)の部屋の窓の下で歌うカンツォネッタ(右上版画のシーン)さあ、来ておくれ、窓辺へ」:
★ドン・ジョヴァン二が甘く歌いかける誘惑のセレナータである。結局邪魔が入り誘惑は出来ずに終わるが。

②第2幕フィナーレの「騎士長の場面(ドン・ジョヴァンニ地獄落ちのシーン)
ドン・ジョヴァン二の夕食招待を受け、ドン・ジョヴァン二が刺殺した騎士長の石像が現れ、ドン・ジョヴァン二に悔悛し罪を贖うようにせまる。"Pentiti, cangia vita "(悔い改めよ): "È l'ultimo momento"(最後の機会である).....ドン・ジョヴァン二は欲望に対し妥協せず、それを断念するぐらいであれば死んだ方がましであるとして、騎士長の慈悲を断固として拒絶し、地獄に落ちるのである。

                                   第二幕、ドン・ジョヴァンニ地獄落ちのシーン
第二幕、ドン・ジョヴァンニのカンツォネッタ             ドン・ジョヴァンニ: サムエル・レイミーSamuel Ramey
さあ、来ておくれ、窓辺へ"Deh vieni alla finestra"          騎士長Il Commendatore(石像):クルト・モル Kurt Moll
ドン・ジョヴァンニ: サムエル・レイミーSamuel Ramey        レポレッロ: フェルッチョ・フルラネットFerruccio Furlanetto
     
     


ドン・ジョヴァンニ特集記事
ドン・ジョヴァンニ(その1)
ドン・ジョヴァンニ(その2)
ドン・ジョヴァンニ(その3@オペラの歴史)
ドン・ジョヴァンニ(その4)


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モーツァルト32歳・三大交響曲とブフベルク書簡(ウィーン⑧1788年)

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前年1787年12月、皇帝ヨーゼフ2世より皇王室宮廷音楽家(作曲家)に任命されたモーツァルトは新年早々、初仕事として数曲の舞曲を作曲するのである。
★宮廷作曲家としての任務は宮廷で催される舞踏会用の舞曲、即ち、メヌエット、ドイツ舞曲、コントルダンスを作曲することであった。

ヨーゼフ2世は2月5日をもってケルントナートーア劇場(ブルク劇場に次ぐ第二の宮廷劇場)閉鎖した。最後の出し物は『後宮からの誘拐』であった。この閉鎖は、オスマン帝国との戦争が間近に迫ったことによる緊縮財政措置の一環として実施されたのである。
★ケルントナートーア劇場では1785年10月16日以来、ドイツ語オペラがブルク劇場と交替で上演されていた。ケルントナートーア劇場は2月5日から閉鎖され1791年11月16日、即ちモーツァルトが死の床に伏す数日前まで、わずかな例外を除いて使用されることはなかった。

2月9日、ハプスブルク君主国(オーストリア)は同盟国ロシア帝国(エカチェリーナ大帝)を支援するため、対オスマン帝国(トルコ)戦争に参戦した。ヨーゼフ2世は2月28日には自らこの戦争のため、セルビア=クロアチア地方のゼムリン"Semlin"(セムン)に赴き、そこで滞留したのである。
★ヨーゼフ2世は9ヶ月以上、かの地に滞留し、ウィーンに戻ったのは12月5日となった。

皇帝ヨーゼフ2世は、3月1日付をもって病弱な宮廷楽長のジュゼッペ・ボンノ(1710年1月29日−1788年4月15日)を退任させ、その後任楽長としてアントニオ・サリエーリ(Antonio Salieri、1750 - 1825)を就任させている。

この年の四旬節はケルントナートーア劇場(独: Theater am Kärntnertor)閉鎖に加え、オスマン帝国との開戦により主だった貴族が戦地に赴いたり、領地に戻ったりしたこともあり、モーツァルトの演奏会はほとんど開催されていない。

5月7日、ブルク劇場『ドン・ジョヴァン二』ウィーン初演が行われた。すでに『後宮からの誘拐』『フィガロの結婚』初演が行われた劇場である。ウィーン初演でのポスターには「イタリア語によるジングシュピール」と記載されている。

『ドン・ジョヴァンニ』のウィーン初演については、音楽が歌には難しすぎるとか、退屈したとかの批判もあり、評価が分かれている。この様子を滞留地(ゼムリン)で報告を受けた皇帝ヨーゼフ2世は、宮廷劇場総監督のローゼンベルク伯爵に書簡で「モーツァルトの音楽はまこと歌にはむずかしすぎる。」と記述している。
12月5日、ヨーゼフ2世が戦地から帰還し、12月15日には『ドン・ジョヴァンニ』を観劇した。『ドン・ジョヴァンニ』はこの年1788年に計15回上演されている。7ヶ月間で15回の上演というのは当時の慣習からすれば少ない上演回数ではないが、『ドン・ジョヴァンニ』はこのヨーゼフ2世の観劇を最後に演目から外され, これ以降モーツァルトの生前にウィーンで上演されることはなかったのである。

プラハで上演した『ドン・ジョヴァンニ』の報酬が同地から送金されるのが遅れていたこともあり、この頃からモーツァルトのキャッシュ・フローに狂いが生じ始めた。即ち、家計の出金に対する現金入金不足である。
予約演奏会や貴族邸での個人演奏会の開催回数が激減し、これに伴う現金収入も当然ながら激減したのである。年間を通じてみれば、それなりの収入はあったのであるが、あてにしていた入金がなかったり、遅延したりで、資金繰りに狂いが生じたのである。
★因に、宮廷作曲家としての年間報酬額800グルテンの支払いは年3回均等払いであった。

6月には友人でフリーメイソンの会員であったミヒャエル・ブフベルクに現存する最初の借金依頼の手紙が書かれている。
★ミヒャエル・ブフベルク:1741年生まれ。ウィーンの裕福で音楽好きの織物商。
《最愛の同士よ!あなたの真の友情と兄弟愛にすがって、厚かましくもあなたの絶大なる御好意をお願いします。あなたには、まだ8ドゥカーテンを借りています。いまのところ、それをお返しすることができない状態にあるのに加えて、さらに、あなたを深く信頼するあまり、ほんの来週まで(その時にはカジノで私の演奏会が始まるので)、100フローリンを融通して助けてくださるよう、あえてお願いする次第です。その時までには、必ず予約金が手に入りますし、そうなればこの上なく熱い感謝の念をこめて136フローリンをきわめて容易にお返しできるでしょう。。。(略)あなたのこの上なく献身的同士 W.A.モーツァルト》
★この手紙の欄外にはブフベルク自筆で「100フローリン送金」と書かれている。
★ブフベルクに宛てたこの種借金依頼の手紙は1788年6月に3通、7月初めに1通、合計4通、1789年にも同じく4通、90年には9通もの手紙がかかれ、91年最後の年にも3通、総計20通もの手紙が書かれているのである。さらに紛失した借金依頼状があるものとされている。ブフベルクは通常、借金依頼状を受け取ると、依頼金額より低い額をその都度送金し、依頼状にいくら送金したかを書き留めておくのである。

6月29日には長女マリア・テレジアがわずか半年の命で昇天し、ヴェーリング墓地に埋葬されている。
7月初めには《家計がぎりぎりまで追いつめられて、心労と不安が絶えません。》と、ブフベルク宛に再度金銭的支援(借金)依頼の手紙を書くのであった。

経済的に緊迫してきたとは言え、この時期モーツァルトの創作意欲は旺盛で、6月から8月にかけて精力的に器楽曲を作曲するのである。この器楽曲を代表するのが三大交響曲なのである(後述)。

また、宮廷作曲家としてこの年後半にもメヌエットや舞曲、室内楽曲を完成させるのである。


Don_Giovanni_Playbill_Vienna_Premiere_1788.jpg
ドン・ジョヴァンニのブルク劇場(ウィーン)初演のポスター
正式タイトルは『罰せられた放蕩者、あるいは、ドン・ジョヴァンニ』”Il dissoluto punito, o sia il Don Giovanni”


この年作曲された主たる作品は次の通りである。

クラヴィーアのためのアレグロとアンダンテ へ長調 K.533
1月3日完成。モーツァルトのソナタ全集のほとんどはこのK.533を第一・第二楽章とし、1786年に作曲されたロンド ヘ長調 K.494を第三楽章としてとりまとめている。これはモーツァルトが自身が承認したホフマイスター版に従うものである。

コントルダンス ニ長調「雷雨」K.534 (1月14日作曲)とハ長調「戦闘」K.535 (1月23日作曲)

6つのドイツ舞曲 K.536 (1月27日作曲)
★2曲のコントルダンスK.534/535とドイツ舞曲K.536はいずれも宮廷作曲家としての作品である。

クラヴィーア協奏曲(第26番)ニ長調 「戴冠式」 K.537
2月24日完成。この年ウィーンで演奏する機会はなかったが、翌年1789年にドレスデンで初演されている。さらに、1990年、ヨーゼフ2世崩御に伴うレオポルト2世(ヨーゼフ2世の弟)のフランクフルトでの戴冠式にあわせ、モーツァルトは自費で同地に駆けつけ演奏会を開催、ここで演奏されたことより「戴冠式」の愛称がついた。同時に演奏された第19番も「第二戴冠式」と呼ばれる。

ドイツ語軍歌「我は皇帝たらんもの"Ich mochte wohl den Kaiser sein"」K.539
3月5日作曲。オスマン帝国とロシア帝国との戦争にロシアとの同盟に従い、この年2月にハプスブルク(オーストリア)帝国も参戦したが、戦意高揚の為の軍歌として作曲された(これも宮廷作曲家としての公務であった)。

「ドン・ジョヴァンニ」ブルク劇場での初演用アリアと二重唱
5月7日、ブルク劇場で『ドン・ジョヴァン二』のウィーン初演が行われたが、初演の役割表は次の通りであった。
ドン・ジョヴァンニ:フランチェスコ・アルベルタレッリ
騎士団管区長(騎士長):ジュゼッペ・ロッリ
ドンナ・アンナ:アロイジア・ランゲ
ドン・オッタヴィオ:フランチェスコ・モレッラ
ドンナ・エルヴィーラ:カタリーナ・カヴァリエーリ
レポレッロ:フランチェスコ・ベヌッチ
マゼット:フランチェスコ・プッサーニ
ツェルリーナ:ルイーザ・ラスキ=モムベッリ
★上記中、ドン・オッタヴィオを歌ったフランチェスコ・モレッラ(Francesco Morella)が第21曲のアリアが難しすぎるとして代替アリアを要求したことから次のアリアが作曲された。 *アリア「私の心の安らぎはあの人にかかっている "Dalla sua pace la mia dipende"」K.540a
★第21曲が歌われなくなった為にその代わりに作曲されたのが次のツェルリーナとレポレッロの二重唱である。
*二重唱「この小さな手に免じて"Per queste tue manine"」K.540b
★ドンナ・エルヴィーラを歌ったカタリーナ・カヴァリエーリのために追加作曲された。
レチタティーヴォとアリア「なんとひどいことを"In quali eccessi", あの恩知らずの心は私を裏切ったのよ"Mi tradi quell'alma ingrata" K.540c

交響曲(第39番)変ホ長調 K.543
6月26日完成。この年3ヶ月間で作曲された「モーツァルトの三大交響曲」の第1曲である。三大交響曲はモーツァルトの多様性を集約した作品群であると言える。変ホ長調は極めて荘厳な序奏から開始される。

クラヴィーア・ソナタ ハ長調 K.545
6月26日作曲。第15番(新全集第16番)のソナチネである。このチャーミングな曲想のソナタはモーツァルト自身が「初心者のための小さなソナタ(ソナチネ)」と呼んだ通り、弟子のレッスン用に書かれた作品であろうとされているが、誰のために書かれたのかなど詳細は不明。

ヴァイオリン・ソナタ ヘ長調 K.547
7月10日作曲。「初心者のためのヴァイオリン付きのソナタ」と自作品目録に記載されている。ハ長調のクラヴィーア・ソナタ K.545と対をなす作品。3楽章ともヘ長調。

クラヴィーア三重奏曲 ハ長調 K.548
7月14日作曲。この年6月から10月にかけて3曲のクラヴィーア三重奏曲が作曲された。いずれもブフベルク家での小さな音楽会のための作品であろうとされている。後の2つはホ長調 K.542(6月22日作曲)とト長調 K.564 (10月27日作曲)

交響曲(第40番)ト短調 K.550
7月25日完成。モーツァルトの交響曲の中でわずか2曲しかない短調交響曲(あとの一つは第25番 K.183/173B)でモーツァルトの全作品中でも最もポピュラーで、永遠の名曲である。

交響曲(第41番)ハ長調 「ジュピター」K.551
8月10日完成。モーツァルト最後の交響曲であり、ギリシャの最高神ゼウス(=ジュピター)の名がふさわしい。

カノン
8月と9月には「プラター公園に行こう、狩り場に行こう」K.558を含め約10曲のカノンが作られている。

ディヴェルティメント 変ホ長調 K.563
9月27日作曲。晩年の多くの室内楽作品中の傑作。


交響曲(第39番)変ホ長調 K.543                  交響曲(第40番)ト短調 K.550
第一楽章 アダージョ                          第一楽章 モルト・アレグロ
カール・ベーム Karl Böhm                      リボル・ペシェク Libor Pesek
ウィーン交響楽団 Wiener Symphoniker              スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団
     
                                    Slovak Philharmonic Orchestra



交響曲(第41番)ハ長調 K.551「ジュピター」            ディヴェルティメント 変ホ長調 K.563
第四楽章 モルト・アレグロ                       第一楽章 アレグロ
ジェフリー・テイト Jeffrey Tate                     グリュミオー・トリオ Grumiaux Trio
イギリス室内管弦楽団 English Chamber Orchestra
     



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モーツァルトは4月8日、カール・リヒノフスキー侯爵の誘いを受けて、同侯爵と共に、プロイセン王国(北ドイツ+ポーランド西部)に向けてウィーンを馬車で旅立った。この旅の主要目的はプロイセン王国の首都ベルリンで国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世への謁見にあった。

★カール・リヒノフスキー侯爵(Karl Lichnowky 1756-1814)は後にベートーヴェンの後援者として有名になる人物である。ベートーヴェンが音楽家として致命的な耳の病を発病した一年後頃に発表した(1799年発表。ベートーヴェン29歳)ピアノ・ソナタ第8番ハ短調Op.13『悲愴』は、リヒノフスキー侯爵に献呈されている。
★フリードリヒ・ヴィルヘルム2世:(Friedrich Wilhelm II., 1744年9月25日 - 1797年11月16日)プロイセン王(在位:1786年8月17日 - 1797年11月16日)

前年には演奏会の開催が激減し、この年にも好転の兆しが見えず、経済的にも緊迫していたモーツァルトはフリーメイソンの同士であり音楽に造詣の深いリヒノフスキー侯爵と共にベルリンに行き、音楽愛好家として名を馳せていたプロイセン国王、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に謁見すれば、現状打開策が見つかるかも知れないとの考えもあっての旅なのである。

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン「プロシア四重奏曲」 Op.50(全6曲)を1787年1月から9月にかけて作曲し、同年12月アルタリア社より出版、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に献呈されており、モーツァルトはこれにも刺激を受けていたのではないかとも思われる。
★ウィーン宮廷では前年1788年2月に5歳年上のアントニオ・サリエーリが宮廷楽長に任命されており、モーツァルトの究極的願望であった宮廷楽長への道は遠のいたとの判断もあり、プロイセン王からそれなりの処遇の提示があれば、ウィーン宮廷を辞しプロイセン宮廷に仕えることも選択肢に入れていたのであろう。

4月10日にプラハに到着、その後12日にドレスデンに着いた。ドレスデンではザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世の宮殿で、前年1788年2月に作曲しウィーンでは初演の機会がなかった『クラヴィーア協奏曲ニ長調(K.537)「戴冠式」』を御前演奏している。

4月18日にはドレスデンを発ち、20日にライプツィヒに着き、22日にヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685 - 1750)ゆかりの聖トーマス教会を訪問し、オルガンを奏している。モーツァルトは1782年にヴァン・スヴィーテン男爵のところで集中的にバッハの曲に接した「バッハ体験」を思い出しながらバッハに捧げる曲を弾いたのであろう。この演奏を聴いたバッハの弟子であリ聖トーマス 教会のカントル(音楽監督、トーマスカントル)の当時74歳の老音楽家ヨハン・フリードリヒ・ドーレス(1715−1797年はバッハの再来かと感激したと伝えられている。
バッハはライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(トーマスカントル、独:Thomaskantor)を約13年間(1723-1736)務めている。

4月25日頃にはベルリン近郊のポッダムに到着し、当時はプロイセン国王の夏の離宮であったサンスーシ宮殿に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が滞在しており、モーツァルトは謁見を申し入れた。国王には謁見できなかったが、王の指示により宮廷音楽総監督ジャン・ピエール・デュポールと面談することとなった。
★ジャン=ピエール・デュポール:(1741-1818) Jean-Pierre Duport フランス出身のチェロの名手。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の皇太子時代にチェロを教えている。

モーツァルトは変奏曲(後述)をデュポールに贈ることによってその印象を良くしようと考えたのであろうが、それが奏功したとは思えない結果ではあった。

リヒノフスキー侯爵がウィーンに戻る必要が生じたため、モーツァルトは同侯爵に付き合いライプツィヒまで戻り、5月12日同地のゲヴァントハウスで演奏会を催している。この演奏会ではプラハからドレスデン経由ライプツィヒにたまたま来ていた古くからの友人でソプラノ歌手のドゥーシェク夫人が2曲のアリアを歌い、モーツァルトは前年に作曲した三大交響曲のうちのいずれかを演奏したとする説がある。

モーツァルトは旅先からウィーンに残してきた妻コンスタンツェに愛情溢れる手紙を度々書いているが、5月16日付の手紙にはこの演奏会は「拍手喝采と名誉の点ではまったくすばらしかったけれど、収入に関しては比較にならないほどお粗末だった。」と語っている。

モーツァルトは5月19日にベルリンに到着した。同日、ベルリン王立劇場で上演された「後宮からの誘拐」に立ち会い、5月26日ベルリン王宮王妃フリーデリーケの御前での演奏を行った。
その後5月28日にベルリンを発ち、ドレスデン、プラハ経由で6月4日にウィーンに帰着した。

プロイセン王国への旅から帰着後7月12日には友人のブフベルクに対し、借金依頼の書簡が出されており、同王国への旅は「収入の面では比較にならないほどお粗末なものであった」ことを裏付けている。

『親愛な、最上の友!尊敬すべき結社盟友よ。
ああ!わたしはいま最悪の敵にも望まないような状況におります。そして、最上の友であり盟友であるあなたにもし見捨てられたら、私は不幸にも、なんの罪もないのに、かわいそうな病気の妻と子供もろとも、破滅してしまいます。。。(中略)このたびの妻の病気のために、どれほど私の稼ぎが妨げられているか、繰り返し申し上げるまでもないでしょう。私の運命は残念ながら、でもウィーンだけのことですが、私には逆風で、いくら稼ごうと思っても稼げません。私は二週間にわたって予約名簿(注:予約演奏会用)をまわしたのですが、そこにはただひとりスヴィーテン(注:ヴァン・スヴィーテン男爵)の名前があるだけです。』
★この関連でブフベルクは150フロリーンを送金している。
★妻のコンスタンツェは足の感染症に悩まされており、その療養と治療のために、主治医のクロセット博士よりウィーン南方の温泉(硫黄泉)療養地バーデンでの湯治を勧められ、モーツァルトはコンスタンツェを遅くとも8月中旬までにはバーデンに湯治に行かせたのである。

8月29日には「フィガロの結婚」がブルク劇場で2年半ぶりに再演され、新キャストによる上演は大成功を収め1791年2月までに計29回も上演されることになった。さらにこの再演成功直後より、ダ・ポンテが台本を書き下ろしたブルク劇場の翌年1790年のシーズン用のオペラ・ブッファ「コシ・ファン・トゥッテ”Così fan tutte"(女はみんなこうしたもの)の作曲を開始したのである。
★ひととおり作曲し終えたモーツァルトは12月31日ハイドンブフベルクを自宅に招いて試演を行った。

11月16日にモーツァルトの第5子(次女)となるアンナ・マリアが誕生したが、生まれてすぐに息を引き取り、健全に育っていたのは、第2子として生まれたカール・トーマスだけであった。

政治的にはロシア帝国との同盟に基づき参戦したオスマン帝国との戦争長期化の様相を呈し、この戦争のため前年1788年に9ヶ月以上にも及ぶセルビア=クロアチア地方のゼムリン"Semlin"に滞留し、同年12月5日ウィーンに帰着した皇帝ヨーゼフ2世は体調を崩し、病床についていた。
ハプスブルク君主領ハンガリーでは、中央政府による国家管理の一元化に対して、啓蒙に感化された特権身分社団による反発、農民反乱が恒常的なものとなりつつあった。又、オーストリア領ネーデルランドでも反乱が勃発する事態となった。
★ネーデルランドは1790年ベルギー合州国として独立を宣言したが、新しい国の指導者達の団結心の欠如のため、あえなくオーストリアに制圧されるのである。

7月14日にフランス王国(国王ルイ16世、王妃マリーアントワネット)では、パリ市の民衆が同市にあるバスティーユ牢獄(当時兵器庫)を襲撃する事件が勃発した。フランス革命がはじまったのである。10月、ルイ16世は国民議会が採択した人権宣言の承認を余儀なくされ、パリのチュイルリー宮殿に家族と共に幽閉された。
★パリのチュイルリー宮: 1778年6月18日、スイスの間でモーツァルト交響曲ニ長調「パリ」K.297が演奏され、大成功を収めた宮殿である。弊記事「モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅③(パリ)」ご参照。
★フランス革命の勃発を受けヨーゼフ2世は翌年1790 年に宗教寛容令を除く殆どすべての絶対主義政策を撤廃することになる。


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古いブランデンブルク門(1764年)                              モーツァルト(33歳)

新しいブランデンブルク門はフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により建築家カール・ゴットハルト・ラングハンスによって
古代ギリシャ風で設計され、1788年から3年間の建設工事を経て1791年8月6日に竣工している。従い、モーツァルトが
ベルリンを訪問した時は新しい門は建設中であり、完成したのはモーツァルトが没した年である。

33歳のモーツァルト:1989年4月16日、ドレスデンにて女流素人画家ドーレス・シュトックにより銀筆で描かれた。現存するモーツァルト最後の肖像画である。


この年1789年のモーツァルトの主な作曲活動は次の通りである。

クラヴィーア・ソナタ(第16番)変ロ長調 K.570 (新全集17番)
2月に作曲されているが、初演の時期や場所など詳細は不明。

6つのドイツ舞曲 K.571
2月21日作曲。謝肉祭シーズンの宮廷舞踏会用に宮廷作曲家の職務として作曲された。快活さの中に繊細さが見受けられる。

J.P.デュポールのメヌエットの主題によるクラヴィーアのための9つの変奏曲 K.573
4月29日ポッダムにて作曲。前述の通り、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世への謁見を申し入れたところ国王の指示により、宮廷楽長のデュポールが面談することになった。そこでモーツァルトは彼の「チェロとバスのためのソナタ 作品4の6」のメヌエットに基づく変奏曲を作り、手土産にしたとされている。

弦楽四重奏曲(第21番)ニ長調 K.575 「プロイセン王セット 第1番」
プロイセンよりの旅から6月4日ウィーンに帰着したモーツァルトが、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に献呈する目的をもって6月中に作曲した作品。6曲よりなるセットにする予定であったが、翌年1790年に第2番変ロ長調と第3番へ長調を作曲しただけで終わっている。これら3曲はモーツァルト昇天後にアルターリアより出版されている。

クラヴィーア・ソナタ(第17番)ニ長調 K.576 (新全集18番)
7月作曲。モーツァルトの完成作品としては最後のソナタ。

『フィガロの結婚』再演のための新しいアリア2曲(7月から8月にかけて作曲)
8月29日よりブルク劇場で再演された「フィガロの結婚」にはスザンナにアドリアーナ・フェッラレーゼ・デル・ベーネ、伯爵夫人にはカテリーナ・カヴァリエリを起用し、次の2曲の新しいアリアが作曲された。
「あなたを愛している人の望みどおり"Al desio di chi t'adora"」K.577
スザンナの第4幕第28曲のアリア「さあ、おいで、遅れないで”Deh vieni non tardar"」の代替アリアとして作曲。フェッラレーゼの声の特徴が良く出るようにこのアリアを作曲したものとされている。
「私の胸は喜びにおどるの“Un moto di gioia mi sento"」K.579
同じくスザンナ役のフェッラレーゼの声の特徴を引き出すために作曲された。第2幕第2景第13曲の「おいでなさい.....膝をついて”Venite inginocchiatevi"」の代わりのアリアであるとする説と、代替ではなく第3幕冒頭に挿入されたとする説がある。

クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581 
9月29日完成。モーツァルトの友人でフリーメイソンでもあったクラリネットの名手アントン・シュタードラー (Anton Stadler 1753-1812) のために書かれ、12月22日にブルク劇場で開かれたウィーン音楽芸術家協会の年金基金のための演奏会で初演された。「シュタードラー五重奏曲」の通称が用いられている。晩年の室内楽の最高傑作であり、管楽器と弦のための室内楽の頂点に立つ作品でもある。

舞曲(K.585-K.587)
12月には宮廷作曲家としての職務より、これら舞曲も作曲されている。


J.P.デュポールのメヌエットの主題によるクラヴィーアの        弦楽四重奏曲(第21番)ニ長調 K.575
ための9つの変奏曲 ニ長調 K.573                   「プロイセン王四重奏曲 第1番」
クララ・ハスキル Clara Haskil                      第一楽章 アレグレット
     
1956年ブザンソン(Besançon)リサイタル              グァルネリ弦楽四重奏団 Guarneri String Quartet


クラヴィーア・ソナタ(第17番/新全集第18番)ニ長調        クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581
K.576 第一楽章 アレグロ                       第二楽章 ラルゲット
イングリット・ヘブラー Ingrid Haebler                ザビーネ・マイヤー Sabine Meyer(クラリネット)
     
                                  ハーゲン弦楽四重奏団 Hagen Quartett


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1790年が明け、モーツァルトは2幕のオペラ・ブッファ「コシ・ファン・トゥッテ”Così fan tutte”」(女はみんなこうしたもの)」の総譜作成の追い込みに入っている。このオペラは宮廷作詞家ロレンツォ・ダ・ポンテとのコンビでの第3作目にあたり、舞台はナポリである。

モーツァルトが今は亡き父レオポルトと共に初めてイタリアに旅行し、オペラの一大拠点であり風光明媚なナポリを訪れ、約1.5ヶ月の素晴らしいナポリ生活を堪能したのは、丁度20年前、14歳の時であった。

「コシ・ファン・トゥッテ」に登場する二人の姉妹フィオルディリージとドラベッラそして老哲学者ドン・アルフォンソがナポリ湾から遠ざかって行く姉妹の恋人二人の乗る船を見送りながら、航海の無事を祈って歌う美しいホ長調の三重唱「風が穏やかであれ“Soave sia il vento"」(後述)は、まさに14歳のモーツァルトが父レオポルトと二人でいつまでも眺めていたナポリ湾の微風と哀愁を感じさせるのである。
★弊記事「モーツァルトの第1回イタリア旅行(その1)」ご参照。

1月26日ブルク劇場「コシ・ファン・トゥッテ」が初演され、好評を博し、このオペラは2月11日までに5回上演されたのである。

2月20日、モーツァルトを積極的ではないにせよ常に支援してくれた皇帝ヨーゼフ2世が崩御し、喪に伏すためにオペラ上演は中止となった。皇帝はオスマン(トルコ)戦争で自ら戦地に赴いたことで体調を崩し、前年の1789年には病床にあったが、享年49歳で帰らぬ人となった。
★喪が明け再度「コシ」が舞台にかけられたのは6月6日のことであった。

3月13日ヨーゼフ2世の後継者として弟でトスカーナ大公のレオポルト2世フィレンツェからウィーンに到着した。これを機会にモーツァルトは次席宮廷楽長職を得るべく活動を始めているが、これは不調に終わった。
★レオポルト2世はヨーゼフ2世の色彩の強かった宮廷人事一新を開始し、モーツァルトの理解者だったヴァン・スヴィーテン男爵の宮廷教育委員会委員長の任を解いたりするのである。

レオポルト2世の神聖ローマ皇帝としての戴冠式は10月9日(土)フランクフルト・アム・マインにおいて挙行されることが決定した。帝国内にあってはハンガリーにおける農民の反乱の恒常化、及びオーストラリア領ネーデルランドでの反乱の勃発、帝国外にあってはフランス革命がはじまり、幽閉されているルイ16世の妃で妹のマリー・アントワネットの安否を気遣いながらの対フランス政策に関するプロイセン王国との同盟締結交渉、そしてオスマン帝国との戦争終結折衝など、ハプスブルク帝国が危機に瀕している中での戴冠であり、もともと音楽には関心の薄いレオポルト2世にしてみれば音楽どころではないといった状況でもあった。
★ネーデルランドはこの年、ベルギー合州国として独立を宣言したが、オーストリアはこれを制圧している。
★戴冠式を目前にしてオーストリアはオスマン帝国と休戦協定に調印した。その後、講和、1791年シトヴァ条約を締結して占領地をオスマン帝国に返還、ロシアへの支援を打ち切るとこをと約すことになる。

モーツァルトの経済的窮迫は深刻で、この年も1月から8月にかけてブフベルク宛に計9通の借金懇願の手紙が書かれている。コンスタンツェのバーデンの湯治費が出費を増大させ、モーツァルト自身の健康状態も優れず、持病のリューマチによる身体の痛みや歯痛、頭痛などで最悪の状況であった。8月14日のブフベルク宛の手紙に次の様に語るのである。
『。。。私の状態をご想像下さい。病気のうえに、悩みや心配事が山ほどあるのです。こんな状態では治る病気も治りません。いま現在、ほとほと困っています。少しで結構です。お助けいただくわけにはいきませんか。現在の私にとっては、どれだけでも救いとなるのです。。。』
モーツアァルトブフベルクには窮状をこまかく打ち明けているが、コンスタンツェには家計の窮迫を一切打ち明けずバーデンに湯治に行かせ、金策の苦労を一人で背負っているのである。

シカネーダーがウィーン郊外のフライハウス劇場(所謂ヴィーデン劇場)で9月11日に2幕のジングシュピール「賢者の石」を初演したが、モーツァルトは8月から9月にかけてこの作曲の一部に協力している(後述)

9月23日モーツァルトは義兄のホーファーと下僕ひとりをつれて自家用馬車でウィーンを発ち戴冠式の挙行されるフランクフルト・アム・マインに向かった。同日、レオポルト2世騎兵1,493人、歩兵1,336人、馬車104台という大規模編成でウィーンを出発している。この中に宮廷楽団楽長のサリエーリに率いられた宮廷楽団員総勢15名が含まれている。これら宮廷楽団員はマインツ選帝侯宮廷楽団に合流して、10月9日の戴冠式の奏楽を受け持つのである。宮廷作曲家の職責にある非常勤のモーツァルトはこの公式楽団員には含まれておらず、今回の旅は私費とせざるを得なかったが、それでもモーツァルトが今回の旅行を決断したのは、次の理由によるのである。
①ウィーンにおける音楽活動(特に演奏会)の低迷とそれに伴う減収をカバーすること。
②新しい神聖ローマ皇帝に対する自分自身の売り込み。

10月4日レオポルト2世一行がフランクフルトに到着し、10月9日盛大な神聖ローマ皇帝としての戴冠式が大聖堂で挙行された。ウィーン宮廷楽団の15名の選抜メンバーとマインツ選帝候宮廷楽団がヴィンチェンツォ・リギーニの『ミサ・ソレムニス』とサリエーリの『テ・デウム・ラウダムス』を高らかに演奏した。
ベートーヴェンはレオポルト2世の弟であるケルン大司教(選帝侯)マクシミリアン・フランツの命により『皇帝レオポルト2世の即位を祝うカンタータ(独唱、合唱と管弦楽)』WoO88を作曲しているが、実際に演奏されたかどうかは確認されていない。

10月12日フランクフルトで旧知のベーム一座モーツァルトのジングシュピール「後宮からの誘拐」K.384を上演している。このドイツ語オペラはドイツを中心にヨーロッパ各地で上演されており、モーツァルトの名声を高めているが、著作権のないこの時代にはこういったオペラの再演はモーツァルトには何の収入ももたらさなかった。

10月15日(金)フランクフルトの大劇場でモーツァルトのコンサートが午前11時開演された。
プログラムは2部から構成され、自作交響曲、自作自演の2曲のクラヴィーア協奏曲、2曲のアリア、クラヴィーアの即興演奏などが披露された(後述)。この日はあいにくさる貴族の大昼食会と軍隊の大演習があって聴衆が期待していた程は集まらなかったのである。モーツァルトは同日ウィーンで吉報を待つ妻コンスタンツェに前年のライプツィヒでの演奏会と殆ど同じ結果説明をしている。
『最愛のいとしい奥さん!
。。。きょう11時にぼくの演奏会があった。名誉にかんしては素晴らしかったけれど、報酬の点ではお粗末なものに終わった。。。』

この後、モーツァルトマインツミュンヘンで演奏を行ったが収入面では大した効果が上がらぬままウィーンへの帰途についた。24歳の時ミュンヘンで「イドメネオ」を上演後、ウィーン滞在中のザルツブルク大司教の命によりミュンヘンからザルツブルクを経由しない北方ルートでウィーンに直行したが、今回も同じルートで11月20日頃ウィーンに戻ったのである。
★留守中に引っ越しが行われており、新居はラウエンシュタイン通り970番地の2階であり、この借家がモーツァルトの最後の住まいとなるのである。

ウィーン英国の興行師からの招聘状を手にした。この招聘状はモーツァルトの留守中、10月26日付でロンドンの演奏会ホール『パンテオン』のロバート・プレイ・オライリー氏より出状されたもので、12月末より半年間ロンドンに滞在し2曲のオペラを作曲すれば300ポンドの報酬を支払うという申し入れであった。この招聘状に対するモーツァルトの反応及び対応内容は記録に残されていないが、非常にショート・ノーティスとなってしまったことより、この申し入れは断ったのであろう。
★ロンドンでもモーツァルトのウィーンで出版された作品の印刷譜がウィーンの出版社のロンドンの代理店を通じ、多数販売されており、英国でもモーツァルトの名声は高まっていた。

他方、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンもこの年の秋頃に、ヴァイオリン奏者で興行師のヨハン・ベーター・ザロモンから英国行きの誘いを受けていた。30年以上勤めたエステルハージ侯爵家の宮廷楽団が解散され、年金生活で自由の身となっていた59歳のハイドンは英語も話せないが「音楽が言葉」であるとして、英国行きを決断し、12月15日にウィーンをザロモンと共に出発したのである。前夜モーツァルトはハイドンと最後の夕食を共にしたが、モーツァルトは24歳年上のハイドンを非常に心配し、二人が涙ながらに別れたという逸話が伝えられている。
ハイドンは英国で成功し、1792年にウィーンに戻った時にはモーツァルトはもうこの世にいなかったのである。



Cosi_fan_tutte_-_first_performance.jpg
1790年1月26日ウィーンのブルク劇場での初演時のポスター
Cosi fan tutte, o sia La Scuola degli Amanti (コシ・ファン・トゥッテあるいは恋人たちの学校)


2幕のオペラ・ブッファ「コシ・ファン・トゥッテ”Così fan tutte”(女はみんなこうしたもの)」K.588

作詞者:ロレンツォ・ダ・ポンテ
あらすじ
哲学者ドン・アルフォンソ(B)は2人の若い士官グリエルモ(Br)とフェランド(T)に女性の貞節を信頼する愚について説明する。若い士官二人はそれぞれの恋人であるフィオルディリージ(S)とドラベッラ(Ms)姉妹に限って貞節を疑うなどとはとんでもないとして言い争いとなり、3人は賭けをする。士官たちは姉妹に対し、戦場への招集がかかったとしてナポリの港を出航して行くふりをする。その後2人はアルバニア人に変装し、姉妹をあの手この手で交互に誘惑する。姉のフィオルディージはアリア「岩の様に動ぜず」を歌い断固誘惑を拒絶する。
姉妹の女中で世辞にたけたデスピーナも哲学者に金貨で籠絡されアルバニア人の誘惑作戦に加担する(仕官が変装していることは知らされない)。姉妹には『女も15歳になれば男をあやつれる様にならねば』とそそのかす。だんだんその気になってきた姉妹はまず妹のドラベッラが姉の恋人グリエルモ扮するアルバニア人にくどきおとされる。姉のフィオルディリージは妹の恋人フェランド扮するアルバニア人に心を動かされる。姉妹の不実に怒り狂う青年士官2人を哲学者は第30曲アンダンテ「男はみんな女を責める。だが私は許す。”Tutti accusan le donne, ed io le scuso."」なぜなら”Così fan tutte”(女はみんなこうしたもの)」であるからと説得し、姉妹と結婚することを勧める。
他方、デスピーナがアルバニア人と姉妹は結婚することを決めたと伝える。姉妹とアルバニア人2人の結婚式が始まり、デスピーナが変装する公証人の前で結婚証書が作成される。すると遠くから軍隊の帰還を告げる合唱が聞こえてくる。アルバニア人2人は引き下がり変装を解いた上で士官姿で姉妹の前に現れ、結婚証明書を見つけ、これは何だ!と姉妹を責める。姉妹は死んで不実を詫びようとするが、哲学者ドン・アルフォンソが真相を語り、姉妹には愛の本質の勉強であったことを説明し、無事もとの鞘に収まる。

このオペラの登場人物は6名(男女各3名)であるが、声のアンサンブルが素晴らしく、全曲31曲中半分以上が二重唱から六重唱までのアンサンブルで構成されており、『アンサンブル・オペラ』と呼称される所以でもある。


序曲                               第6曲 別れの五重唱「僕は感じる。ああもう、この足は
ジョン・エリオット・ガーディナーJohn Eliot Gardiner           Sento, oh Dio, che questo piede
イギリス・バロック管弦楽団The English Baroque Soloists:
     

第6曲 別れの五重唱
ロッド・ギルフライ(Br)Rod Gilfry(グリエルモGuglielmo),ライナー・トロスト(T)Rainer Trost(フェルランドFerrando),クラウディオ・ニコライ (B)Claudio Nicolai(ドン・アルフォンソDon Alfonso), アマンダ・ルークロフト(S)Amanda Roocroft(フィオルディリージ Fiordiligi)、ローザ・マニヨン(S)Rosa Mannion(ドラベッラDorabella)
士官2名は許婚の姉妹に戦場への出征の別れを告げる。姉妹は嘆き悲しみ別れを惜しみ、いっそのこと命をあなたの手で絶って欲しいと嘆く。こんな辛い人生があるのだろうかと声をあわせる。



第10曲 小3重唱「風が穏やかであれ               第13曲六重唱「麗しのデスピネッタに
"Soave sia il vento"                       "Alla bella Despinetta"  
     

第10曲小3重唱「風が穏やかであれ
姉妹とドン・アルフォンソの3重唱(ナポリ湾から遠ざかって行く船を見送りながら):風が穏やかにあり、波が静かにあれと航海の無事を祈ってうたう。

第13曲六重唱「麗しのデスピネッタに」:
ドン・アルフォンソが姉妹の女中デスピネッタ(Eirian James)に二人のアルバニア人(士官の変装)を友人だと紹介する。デスピネッタは二人の格好に驚きながらも、愉快がる。そこに姉妹が現れ、アルバニア人は姉妹に愛を告白する。姉妹は驚き、呆れ、恋人の士官に心で貞節を誓う。


第14曲アリア「岩の様に動ぜず                   第17曲アリア「愛の息吹は
"Come scoglio immoto resta"                  "Un'aura amorosa"
     

第14曲アリア「岩の様に動ぜず
フィオルディリージ Fiordiligiのアリア(アマンダ・ルークロフトAmanda Roocroft)
ドン・アルフォンソの友人であるアルバニア人二人から愛の告白を受け、フィオルディリージは風や嵐にも岩が不動であるように常にこの心は不動であり、愛情をかえさせることが出来るのはただ死のみであり、無遠慮な行動は慎んで下さいと歌う。

第17曲アリア「愛の息吹はアルバニア人に変装している士官のフェルランド(ライナー・トロスト Rainer Trost)のアリア。
恋人が誘惑を断固として拒絶している姿に感動して歌うアリア:「僕たちの尊い宝の愛の息吹は心に甘い安らぎを与えてくれる。心は愛に満たされ、その他の糧などいらない。。。」

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シカネーダーがウィーン郊外のフライハウス劇場(所謂ヴィーデン劇場)で9月11日に2幕のジングシュピール「賢者の石"Der Stein der Weisen"」を初演したが、モーツァルトは8月から9月にかけて喜劇的二重唱「さあ、愛しい僕の奥さん、僕と行こう”Nun liebes Weibchen, ziehst mit mir”」K.625/592aを作曲している。このジングシュピールと1791年9月に完成する2幕のドイツ語オペラ「魔笛”Die Zauberflöte”」との関係(類似性)が興味深い。詳細は弊記事「猫とモーツァルト」ご参照。
★K.625/592aについて、モーツァルトは自作目録に記載していないことからオーケストレーション或は、曲の一部分を作曲しただけではないかとの説が存在している。

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10月15日(金)フランクフルトの大劇場で午前11時開演されたモーツァルトのコンサートのプログラム内容は次の通りである。
第一部
①モーツァルト氏の新作大交響曲
★特定されていないが、第31番ニ長調「パリ」K.297/300a第33番変ロ長調K.319第35番ニ長調「ハフナー」K.385のいずれかと考えられている。前年1789年に作曲された三大交響曲である可能性は低い。
②アリア、シック夫人によって歌われる。
★特定されていないが、モーツァルトの作品ではないと考えられている。
③フォルテ・ピアノ用協奏曲、自作を楽長モーツァルト氏が演奏。
後に「戴冠式」と名づけられることになるクラヴィーア協奏曲(第26番)ニ長調(K.537)であるとされている。
④アリア、チェッカレッリ氏によって歌われる。
★カストラート歌手のチェッカレッリが1781年4月にウィーンでモーツァルトに書いてもらった「この胸に、さあ、いらっしゃって ー 天があなたを私に返して下さる今」(K.374)のロンドと考えられている。
第二部
①楽長モーツァルト氏自作の協奏曲
クラヴィーア協奏曲(第19番)ヘ長調(K.459) 「第二戴冠式」であるとされている。
②二重唱曲、シック夫人とチェッカレッリ氏によって歌われる。
★モーツァルトの作品ではないとされている。
③モーツァルト氏の即興による幻想曲。
④交響曲
第一部の交響曲の最終楽章であろうとされている。

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コシ・ファン・トゥッテが前年末には殆ど完成していたことを考えると、モーツァルトのこの年の作曲数は極端に少なく、上述の8月から9月にかけて作曲した喜劇的二重唱「さあ、愛しい僕の奥さん、僕と行こう”Nun liebes Weibchen, ziehst mit mir”」K.625/592a以外の完成した作品は次の通りである。
★前年と同様この年も予約演奏会は開催出来ずに終わっている。

弦楽四重奏曲(第22番)変ロ長調「プロイセン王セット第2番」K.589 及び弦楽四重奏曲(第23番)ヘ長調「プロイセン王セット第3番」 K.590
★前年1789年6月頃に完成したニ長調 K.576とあわせ1791年12月28日付で出版社アルターリアより出版されるのである(モーツァルトは同年12月5日昇天)。

G.F.ヘンデルの2つの作品の編曲(7月完成)
オラトリオ『アレクサンダーの饗宴』の編曲 K.591
『聖セシリアの祝日への讃歌』の編曲 K.592
★上記はいずれも音楽家の守護神である聖セシリアを称える頌歌である。尚、聖セシリアの祝日は11月22日。
★この編曲はヴァン・スヴィーテン男爵の依頼に応え『同好騎士協会」のために書かれた。

弦楽五重奏曲 ニ長調 K.593
12月作曲。ハンガリーの裕福な愛好家のために作曲された。晩年特有の曲想。

自動オルガンのためのアダージョとアレグロ ヘ短調 K.594
10月から12月にかけて作曲。1791年3月から8月にかけてウィーンのラウドン元帥の霊廟で鳴らされた葬送音楽であるとされている。ラウドン元帥はオスマン帝国との戦争における当時の国民的英雄であった。



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モーツァルト35歳前半・「皇帝ティートの慈悲」(ウィーン⑪1791年前半)

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モーツァルトの永遠の旅立ちとなる1791年が明けた。

1789年のプロイセンへの旅そして1790年のフランクフルト・アム・マインへの旅で、「名誉にかんしては素晴らしかったが、報酬の点ではお粗末なものに終わった演奏会」を経験したモーツァルトは、1790年10月8日付でフランクフルトから妻コンスタンツェに宛てた手紙で次の様に語ったのである。「ウィーンで一生懸命に働き、弟子を取れば、ぼくらはけっこう幸せに暮らせる。そして、ぼくにこの計画をやめさせることが出来るのは、どこかの宮廷で、いい契約がある場合だけだ。

ロンドンへの招聘を受けずウィーンに留まった理由の一つは恐らくこのフランクフルトでの決意もあってのことであろう。ともあれ、モーツァルトは新年早々から猛烈な勢いで創作活動を始めた(後述)。まさに「疾走するモーツァルト」なのである。

1月5日クラヴィーア協奏曲(第27番)変ロ長調(K.595)を完成させた。モーツァルトの遺した最後のクラヴィーアのための協奏作品となるわけだが、3月4日宮廷料理官イグナーツ・ヤーンの運営する「ヤーン館」でクラリネット奏者ヨーゼフ・ペーアの演奏会が開催され、ここでモーツァルト自身により初演された。
★このコンサート出演がモーツァルトにとって、公開のものとしては最後の演奏となった。この演奏会にはアロイジア・ランゲ夫人も出演し、アリアを歌っている。

1月14日に三つのドイツ語歌曲(リート)を作曲し、宮廷作曲家としての公務である皇王室舞踏会場用に多数の舞曲もこの時期作曲している(後述)

この年前半、レーオポルト2世は、サリエーリのイタリア・オペラ指揮者の任を解いた。更に、ダ・ポンテや宮廷劇場総監督のローゼンベルク伯爵らの解任をも命じた。サリエーリは宮廷礼拝堂の宗教音楽指揮者を命じられ、オペラ作曲の機会は事実上失われてしまった。これらは緊縮財政政策の一環でもあり、又、ヨーゼフ2世色の一掃をも意図した措置である。
ダ・ポンテはウィーンを離れ、1792年から1805年までロンドンで過ごした。その後アメリカに渡り、フィラデルフィアを経てニューヨークに落ち着き、コロンビア大学の最初のイタリア文学教授に就任し、イタリア語およびイタリア文学の教育に献身するのである。

サリエーリは4月16日および17日にブルク劇場に於ける音楽家協会の慈善演奏会で、モーツァルトの交響曲第40番ト短調やコンサート・アリアなどを指揮しており、この頃のサリエーリは後年の噂話となるモーツァルトとの不仲説を一掃する行動をしているのである。

楽譜出版販売も順調に推移しており、1789年に作曲した6曲の舞曲(K.571)を初めとして多数の舞曲の筆写譜が出版商ホフマイスターより出版・販売された。又、多数の器楽曲の楽譜もアルターリアなどから出版されている。

前年1790年に友人且つフリーメイソンの同士であり、当時ヴィーデン劇場の支配人、興行師、台本作者、作曲家、俳優兼歌手として八方破りの活躍をしていたエマヌエル・シカネーダーに、ジングシュピール「賢者の石」の作曲で協力したが、そのシカネーダーより新しいジングシュピールの作曲依頼が3月頃持ち込まれた。この新しいジングシュピールこそがモーツァルトの最後のドイツ語オペラとなる「魔笛”Die Zauberflöte”」である。台本はシカネーダーが書き下ろし、モーツァルトは春頃より作曲に取りかかった。

皇王室首都兼君主居城都市ウィーン市参事会は5月9日付訓令書によりモーツァルトを「聖シュテファン司教座大聖堂における現職楽長レオポルト・ホーフマン氏の無給の補佐に任命すると同時に現職楽長職が不在となる場合はその代理を務め、空席となる場合には市参事会が決定する俸給その他の条件を受けること」という訓令を発した。要するに病弱の現楽長の不在時代行(無給)ではあるが、空席となった場合にはその後任とするという訓令である。
★楽長の報酬は2,000グルテンであったとされている。モーツァルトは病弱の楽長より先に昇天したので念願の楽長にはなれなかったのである。

コンスタンツェをこの年も6月から7月にかけて湯治療法のため、ウィーンから南方へ馬車で3時間(徒歩で5時間)程の距離にある温泉保養地バーデンに行かせており、モーツァルト自身も物理的余裕のある限り同地を訪問しているのである。バーデンではコンスタンツェの借家(貸間)探しや、息子のカール・トーマス(当時7歳)のことなどで同地の学校教師で合唱指導者(教区教会の聖歌隊指揮者)のアントーン・シュトル(Anton Stoll 1747-1805)に非常に世話になっていた。このシュトルに感謝の気持ちを込めてモテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(K.618)を6月17日バーデンで作曲・贈呈したのである。
★このモテットはシュトルがバーデンの教区教会の典礼で演奏するためのものであったと思われるが、果たしてモーツァルトが初演時バーデンの教会でオルガン演奏をしたのかどうかは定かではない。

7月前半はシカネーダーが「魔笛」作曲のために用意したあずまや(いわゆる「魔笛小屋」)で作曲に集中し、魔笛の第一幕の総譜作りと第2幕の作曲を進めていた頃、モーツァルトにオペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」の作曲の仕事がプラハから舞い込んできた。

ヨーゼフ2世崩御のあとを継いだ弟のレオポルト2世は前年1790年10月9日フランクフルト・アム・マインで神聖ローマ皇帝としての戴冠式を行ったが、ボヘミア王としての戴冠式を首都プラハに於いてとり行なう必要があった。戴冠式はこの年1791年9月6日、プラハの大聖堂ヴィートゥス教会で挙行されることになった。この祝典用のオペラ・セリアの作曲依頼なのである。1ヶ月程の期間で仕上げる必要がありモーツァルトは直ちに作曲に取りかかった。

7月中旬モーツァルトバーデンに赴いて、コンスタンツェと息子(当時7歳)カール・トーマスウィーンに連れて帰って来た。そして同月26日モーツァルト夫妻にとって最後の子供となる、第6子(四男)のフランツ・クサヴァー・ヴォルフガングが誕生した。
★カール・トーマス(1784年9月21日 ウィーン - †1858年10月31日 ミラノ)フランツ・クサヴァー・ヴォルフガング・モーツァルト(Franz Xaver Wolfgang Mozart, 1791年7月26日 - 1844年7月29日)

この頃、匿名を希望する依頼者の代理人の訪問を受け死者の安息を神に願うミサ曲「レクイエム」の作曲の依頼を受けた。高額の報酬と前渡金の提示があったこと、更にはモーツァルト自身としても子供の時から作曲をしてきた宗教(典礼)曲分野への新たな門出にしたいとの気持もあったのであろう、「レクイエム」の作曲を引き受けたのである。

8月28日モーツァルトは妻のコンスタンツェそして弟子のジュスマイヤーと共にオペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」の演奏指導と上演のためプラハに到着した。
★ウィーン出発は8月25日以前であろうと思われる。

8月29にはレオポルト2世が、そして翌日マリア・ルイーゼ妃プラハに到着した。宮廷から派遣された選抜楽団員7名(その後20名に増員)を率いているのは楽長のサリエーリである。

9月2日には祝祭公演の一環として「ドン・ジョヴァンニ」が恐らくモーツァルト自身の指揮でプラハのノスティツ劇場(現在のエステート劇場=スタヴォフスケ劇場)で上演された。

9月6日大聖堂ヴィートゥス教会レオポルト2世のボヘミア王としての戴冠式が挙行された。その夜、ノスティツ劇場において、モーツァルト自身の指揮により、「皇帝ティートの慈悲」の幕が開けられたのである。

★初演の評判は意見が別れているが、プラハでは9月末まで再演され喝采を博した。モーツァルトの死後、コンスタンツェはこのオペラをウィーンで初演することを企画し、1794年12月29日にケルントナートーア劇場で上演した。ウィーンでの上演は成功を収め、コンスタンツェは1795年から1796年までドイツ各地でこのオペラを上演するのである。

このプラハ旅行でモーツァルトは200ドゥカーテン(900グルテン)というオペラ2曲分に相当する報酬を得て、コンスタンツェと共に9月8日頃プラハを出発しウィーンへの帰路についたのである。
★ウィーンに到着したのは9月12日頃であった。

政治面では神聖ローマ皇帝レオポルト2世はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と共同で、8月27日にピルニッツ宣言を発した。フランス革命により秘密裏に国外脱出しようとした国王ルイ16世一家が見破られ捕らえられるという6月25日の事件(所謂ヴァレンヌ事件)を知ったレオポルト2世は、妹マリー・アントワネット一家(すなわちルイ16世家族)の身を案じ、アルトワ伯(ルイ16世の弟、後のシャルル10世)の仲介により、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世とピルニッツ城(現在のドレスデン市内に所在)で会見し、必要があればフランス革命に干渉する用意があることを共同で宣言した。
★この宣言は後のフランス革命戦争への号砲となったのである。


Family of  Leopoldo.jpg
神聖ローマ皇帝レオポルト2世の家族
両親(女帝マリア・テレジアとフランツ1世)と同じく16人の子供に恵まれた。
この絵は1776年トスカーナ大公の時代に描かれた。

モーツァルト(当時13歳)は第1回イタリア旅行で1770年3月30日フィレンツェを訪れ、トスカーナ大公であったレオポルト大公に御前演奏をしている。又、17歳の時第3回イタリア(ミラノ)旅行(1772年10月24日ザルツブルク発、1773年3月13日帰郷)を行った。この旅行の目的はミラノの謝肉祭用のオペラ「ルーチョ・シッラ」の作曲と上演であった。このオペラの上演が成功後、父レオポルトはフィレンツェのレオポルト大公(トスカーナ大公)にミラノから書面でモーツァルトのフィレンツェでの宮廷音楽家としての採用を請願しているが、不成功に終わったとの経緯がある。


この年前半の主たる創作活動は次の通りである。

クラヴィーア協奏曲(第27番)変ロ長調 K.595
1月5日作曲。新年を迎え、モーツァルトのウィーンでの新たな出発の決意を飾るに相応しい新鮮な響きと風格を伴っており、まさに「天国への門」が開かれたのである。

リート「春への憧れ」"Sehnsucht nach dem Frühling" ヘ長調 K.596
作詞者:クリスティアン・アドルフ・オーヴァーベック Christian Adolf Overbeck
1月14日作曲。この日まとめて3曲のドイツ語歌曲を作曲している。この曲は春を待ち望む子供の心を歌ったものである。「愛しい5月、木々を緑にして小川のほとりにスミレを咲かせておくれ。。。早く緑の季節が来ないかな。スミレとナイチンゲールとカッコーを連れて来ておくれ。」
その他の2曲とは春が来た喜びを歌う「春 Der Frühling」変ホ長調 K.597と素晴らしい春を満喫して遊び帰宅する子供たちの姿を歌う「子供の遊び Das Kinderspiel 」イ長調K.598である。

3つのドイツ舞曲 K.605
2月12日作曲。1月23日から3月にかけて多数の舞曲が作曲されている(K.599-K.607&K.611)が、このドイツ舞曲の第3番はモーツァルトの舞曲中の最も有名な楽曲の一つであり、「橇すべり"Die Schlittenfahrt"」という標題がつけられている。鈴と郵便馬車のホルンを使い、雪の多いウィーンの人々の冬の楽しみであった「ソリすべり」の雰囲気が醸し出されている。

自動オルガンのためのアレグロとアンダンテ(幻想曲)ヘ短調 K.608
3月3日完成。1791年3月から8月にかけてウィーンの国民的英雄ラウドン元帥霊廟で鳴らされた葬送音楽のひとつであろうとされている。この他5月4日にも「自動オルガンのためのアンダンテ ヘ長調」K.616を作曲している。いずれの曲もクラヴィーア用楽譜が出版され親しまれている。 

⑤ B.シャックの「愚かな庭師」のリート「女ほど素敵なものはない」の主題によるクラヴィーアのための8つの変奏曲 ヘ長調 K.613
3月完成。1789年9月にウィーンで上演されたジングシュピール「愚かな庭師”Der dumme Gärtner"」(脚本:エマヌエル・シカネーダー)の第2幕で愚かな庭師アントンのアリアの主題に基づいている。この旋律は当時非常に良く知られていた。

弦楽五重奏曲 変ホ長調 K.614
4月12日完成。モーツァルトは前年暮にロンドンに旅立ったハイドンを思い浮かべながら作曲したのかも知れない。ハイドンへのオマージュを認めたい作品である。

グラス・ハーモニカのためのアダージョとロンド ハ短調 K.617
5月23日完成。楽器後構成:グラス・ハーモニカ、フルート、オーボエ、ヴァイオリン、チェロ グラス・ハーモニカは1760頃、イギリス滞在中のベンジャミン・フランクリンによって考案された。 この作品は幼くして盲目となったこの楽器の名手マリアンネ・キルヒゲスナー(Maria Anna Antonia [Marianne]Kirchgassner)のために書かれ6月10日ウィーンのブルク劇場での彼女の演奏会で初演された。モーツァルトはキルヒゲスナーのためにアダージョ ハ長調 K.356(617a)も作曲している。この作品はウィーンのケルントナートーア劇場で8月19日に開かれた彼女の演奏会で初演されている。

「アヴェ・ヴェルム・コルプス "Ave verum corpus"(めでたし、まことのお体よ)」ニ長調 K.618
6月17日妻コンスタンツェが湯治療法をしているバーデンにて作曲。世にも美しいこのモテットを聴く時、26年前の1765年、9歳のモーツァルトが、ロンドン滞在中に初めての声楽曲の試みとして最初のモテット「神はわれらの避け所”God is our refuge"」を書き、大英帝国博物館に寄贈したこと、そして、その8年後の1773年1月16日にオペラ「ルッチョ・シッラ」のタイトル・ロールを歌ったカストラート歌手ヴェナンツィオ・ラウッツィーニのために書いたモテット「エクスルターテ・ユビラーテ(踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ)」(K.165/158a)の中で特に名高い終曲の「アレルヤ」が思い出されるのである。


クラヴィーア協奏曲(第27番)変ロ長調 K.595              リート「春への憧れ」ヘ長調 K.596      
第三楽章 アレグロ                           "Sehnsucht nach dem Fruhlinge"
アリシア・デ・ラローチャAlicia de Larrocha(P)               リタ・シュトライヒ Rita Streich   
     
スイス・イタリアーナ管弦楽団Orchestra della Svizzera Italiana          1964年録音盤     
ニコラス・カーシーNicholas Carthy(指揮)

                        
3つのドイツ舞曲 K.605より第3番                 アヴェ・ヴェルム・コルプス」ニ長調、K.618
「橇すべり"Die Schlittenfahrt"」ハ長調(トリオ ヘ長調)
     

★「アヴェ・ヴェルム・コルプス」ニ長調、K.618
バイ エルン放送交響楽団及び合唱団 Chor und Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
レナード・バーンスタイン Leonard Bernstein
Ave verum corpus natum de Maria Virgine. めでたし、乙女マリアより生まれ給いしまことのお体よ。
★注:モーツァルトは最初のAveを2度繰り返すことにより楽節のバランスを良くしている。
Vere passum immolatum in cruce pro homine: 人々のため犠牲となりて十字架上でまことの苦しみを受け、
cujus latus perforatum fluxit aqua et sanguine. 貫かれたその脇腹から血と水を流し給いし方よ。
Esto nobis praegustatum mortis in examine. 我らの臨終の試練をあらかじめ知らせ給え。
★注:モーツァルトは"mortis in examine"を"in mortis examine"と順序を入れ替えることにより旋律と和音とを調和させている。
O Iesu dulcis, 優しきイエスよ。
O Iesu pie, 慈悲深きイエスよ。
O Iesu Fili Mariae. Amen. マリアの子イエスよ。アーメン。

         ☆★☆★☆     ★☆★☆★     ☆★☆★☆

2幕のオペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲”La clemenza di Tito"」K.621:
ローマ帝国の皇帝(在位:79年 - 81年)ティトゥスの美徳を題材にしたオペラ・セリアである。

作詞者
ピエトロ・メタスタージョの原作をカテリーノ・マッツォーラ(Caterino Mazzola 1740-1806)が編作(3幕を2幕に短縮)。

初演時の配役表
*ローマ皇帝ティート :(テノール)アントニオ・バリオーニ
*ヴィッテリア:(先帝ヴィッテリオの娘。ソプラノ)マリア・マルケッティ・ファントッツィ
*セスト :(ティートの友人でヴィッテリアを愛している。カストラート・ソプラノ。但しソプラノ、ズボン役という説あり):ドメニコ・ペディーニ(カロリーナ・ベリーニ?)
*アンニオ :(セストの友人でセルヴィリアの恋人、ソプラノ、ズボン役。但し、カストラート・ソプラノであったとする説あり。)カロリーナ・ペリー二(ドメニコ・ベディーニ?)
セルヴィーリア :(セストの妹でアンニオの恋人、ソプラノ)アントニーニ夫人
プブリオ :(近衛隊長官、バス)ガエタノ・カンビ
(現在ではセストとアンニオはメゾソプラノ歌手によって歌われる。)

あらすじ
先帝の娘、ヴィッテリアは、皇帝ティートの后になることを欲しているが、皇帝はユダヤの王女ベレニーチェを愛していることに怒りと嫉妬を感じていた。そのベレニーチェが国外に追放され、后への道が近づいたとの希望を抱いたが、皇帝はヴィッテリアを愛しているセストの妹セルヴィリアを后候補に指名したことを知り、憎しみから、セストの気持ちを利用して暗殺を促す。
他方、后に指名されたセルヴィリアはアンニオを密かに愛しており、真実の気持ちを皇帝に打ち明けて、指名を辞退する。自らの不明を恥じた皇帝は、ヴィテッリアを后とすることを決めたと伝えられる。
しかし、すでに皇帝暗殺を実行すべく宮殿に火が放たれていた。皇帝は無事であった。セストは暗殺計画に加担したとして、逮捕され引き立てられる。皇帝により死刑が宣告される直前、ヴィッテリアは、皇帝にすべてを告白する。一度は裏切りに失望した皇帝も慈悲をもってすべてを許し、人々は皇帝を讃えて終曲となる。
                                  第6曲皇帝ティートのアリア
                                   「最も崇高な王座ということが
序曲                                "Del piu sublime soglio"
     

序曲:指揮アンドリューデイビスAndrew Davisロンドン・フィルハーモニー管弦楽団The London Philharmonic @The Glyndebourne Festival Opera

★第6曲「最も崇高な王座ということが」:
フィリップ・ラングリッジ Philip Langridge(テノール)。 最も崇高な王座ということが慰めなのだ。あとはつかぬまの幸せにあまんじて国への奉仕に徹する。崇高な王座とはそういうものなのだ。。。


第7曲「ああ,初めての愛情に免じて許して下さい        第9曲 セストのアリア「私は行こう、だが愛しい人よ
アンニオ、セルヴィーリアの二重唱                  "Parto, ma tu, ben mio"       
"Ah, Perdona al primo affetto"
     

★第7曲「ああ,初めての愛情に免じて許して下さい」:
マルティン・マエMartine Mahé(アンニオ)、 エルツビエタ・スミトカ Elizbieta Szmytka(セルヴィーリア) :
アンニオ:ああ、はじめての愛に免じて許して下さい。私の軽率な言葉を。。。
セルヴィーリア:あなたは私の最初で最後の愛しい人。。。

★第9曲 セストのアリア「私はいこう、だが愛しい人よ
ダイアナ・モンターギュDiana Montague(セスト)
私はまいりましょう。心の平安が戻るように。あなたに喜ばれるため、あなたの望み通りのことをしましょう。神が与えられたあなたの美しいまなざしがわたしにすべてをなさしめるのです。わたしを見つめて下さい。


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9月12日頃にコンスタンツェと共にプラハからウィーンに戻ったモーツァルトには「魔笛」の作曲の完成と上演、更には「レクイエム」の作曲という仕事が待っていた。

モーツァルトは最後となった今回のプラハでのレオポルト2世戴冠式祝典用オペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」K.621演奏指導の旅を含め35歳の生涯で大小あわせ17回、延べ約10年2ヶ月に渡る旅行をしたことになる。1762年5歳でのミュンヘン旅行に始まり実に生涯の約3分の1は旅行をしていたことになる。

9月28日「魔笛"Die Zauberflöte"(K. 620)第二幕第一場冒頭の「祭司たちの行進 "Marsch der Priester"」と、全曲が完成してから序曲を書くというモーツァルトの習慣からこの日に魔笛の序曲が完成し、これをもって魔笛全曲が完成した。その他の大部分の曲はプラハに出発する前に完成させていたので、シカネーダー一座の試演は行われていた。

9月30日、2幕のドイツ語オペラ「魔笛」がウィーン城壁外の郊外市のひとつヴィーデンにあるフライハウス劇場(ヴィーデン劇場)でモーツァルト自身の指揮により初演された。初演時の人気はそれほどではなかった様ではあるが回を重ねるごとにその人気・評判は高まり、モーツァルトの音楽はウィーンの大衆の心を捉えたのである。この上演の成功を通じ、モーツァルトはオペラ作曲家としてのこれからの方向性を見い出したに違いない。プラハ旅行より帰国後10月初めにコンスタンツェを、末子のフランツ・クサヴァーと義妹のゾーフィーと共に温泉保養地バーデンに湯治に出しているが、コンスタンツェに魔笛の評判を手紙で嬉しげに語るのである(後述)

更にモーツァルトは、レオポルト2世のプラハに於ける9月6日の戴冠式の祝典として同日夜初演され、その後継続上演されていた「皇帝ティートの慈悲」に言及し次の通り語るのである。
実に奇妙なことだが、ぼくのオペラ(注:「魔笛」を指す)あんなにも熱い拍手で迎えられた初演の晩、その同じ晩に、プラハでは「ティート」が異常な喝采を受けて最後の幕を降ろした。どの曲もそろって拍手を浴びたのだ。(1791年10月7日付書簡)

10月14日、モーツァルトはバーデンコンスタンツェに手紙で次の様に語っている。この手紙が現存するモーツァルトの最後の手紙なのである。

6時にぼくは、馬車でサリエーリとカヴァリエーリ夫人を迎えに行って、桟敷席に案内した。それから急いでホーファのところに、その間待たせていたママ(注:コンスタンツェの母親)とカール(注:息子のカール・トーマス)を迎えにいった。サリエーリたちがどんなに愛想がよかったか、きみには想像もつかないだろう。二人とも、ただぼくの音楽だけではなく台本も何もかもひっくるめていかに気に入ってくれたことか。かれらは口をそろえて言っていた。「これこそオペラ(オペローネ)だ。最大の祝祭で、最高の王侯君主を前に上演されて恥ずかしくないものだ。(中略)彼は序曲から最後の合唱まで、実に注意深く、観たり、聴いたりしていたが、「ブラヴォー」とか「ベッロ(美しい)」とか、およそ感嘆の言葉を吐かなかった曲はなかった。」
★サリエーリとカヴァリエーリ夫人:宮廷楽長のアントニオ・サリエーリとソプラノ歌手でサリエーリの愛人のカタリーナ・カヴァリエーリ

オペラにつれていったので、カールは大いに喜んだ。彼は元気そうだ。(中略)カールは悪くはなっていないが、以前より髪の毛一本たりとも良くはなっていない。(中略)彼が自分で白状したところによると、午前中5時間、昼食後5時間、庭のなかをほっつきまわっているだけ。要するにまあ子供なんて、食って、飲んで、寝て、ぶらつくことしかしないもんだ。
★モーツァルトはこの手紙の前日13日カール・トーマス(当時7歳)をペルヒトルツドルフにある寄宿の教育施設に迎えに行きウィーンに連れて来ている。この手紙の末尾には明日15日(土)にカールを連れてバーデンに行くのでゆっくり話そうと書かれている。
★実際、モーツァルトは15日にカールを連れてバーデンに赴き、翌々日ウィーンに連れて帰っている。

レクイエム」の作曲はこの頃行われていたわけだが、依頼人の名前は依然として伏せられたままであった。
★この依頼人は後になって音楽愛好家貴族フランツ・フォン・ヴァルゼック=シュトゥバッハ伯爵であったことが判明する。同伯爵は匿名で名高い作曲家に作曲を委嘱し、それを自ら写譜して演奏させ、自分の作曲であると言わせるのを趣味としていた。モーツァルト没後ジュースマイヤーの補筆を含めた完成版(ジュースマイヤー筆の総譜)がコンスタンツェ経由伯爵の手に渡り、伯爵は当初の意図通り、1793年12月14日ノイクロスター教会に於いて捧げられた、若くして逝った愛妻アンナの追悼ミサで、伯爵自身の作曲であるとして伯爵の指揮により演奏されたのである。

バーデンより戻った10月17日頃よりモーツァルトは体調を崩し、主治医であるクロセット博士の検診と治療を受けているが、恐らく瀉血療法が開始されたものと思われる。
★瀉血療法:今日の医学では考えられないが、悪い血を抜き、造血作用を促すためにかなり大量の血液を抜くという治療法で当時はごく普通に行われる治療であった。モーツァルトの病名や死因についてはリューマチ性炎症熱や腎臓疾患など多種多様である。サリエーリやフリーメイソンによる毒殺説もあるが証拠があるわけでもなく、これらは「噂話」に過ぎないが、瀉血療法が、パリで亡くなった母親の時と同様致命的になったと思われる。尚、聖シュテファン大聖堂の死者名簿では検視結果は急性栗粒疹熱となっており、病名自体に疑問がある為、さまざまな推定や憶測或は論争が行われる原因となっている。

小康状態にあった11月18日にモーツァルトフリーメイソン結社の新会堂の献堂式に列席し、3日前の15日に完成したフリーメイソン小カンタータ「われらが喜びを高らかに告げよ"Laut verkünde unsre Freude"」K.623をモーツァルト自身の指揮で初演した(後述)
★ヨーゼフ2世が1785年12月に発布した「フリーメイソン勅令」によりロッジは1787年後半以降は「新・戴冠した希望」だけになっていた。皇帝レオポルト2世はフリーメイソン弾圧政策をとったことによりウィーンのフリーメイソンは次第にその活動を停止して行くのである。

モーツァルトは11月20日病状が悪化し病床についた。
それでも弟子のフランツ・クサヴァー・ジュスマイヤー(1766-1803)に手伝わせながら、レクイエム Requiem 二短調(K.626)の作曲を続け、第3曲セクエンツィアSequenz(続唱)の第6部ラクリモサLacrimosa(涙の日)二短調の第8小節で中断、12月4日の夜医師のクロセット博士がよばれ、高熱を発している頭を冷やしたところショック症状をおこし、昏睡状態となり、夫人のコンスタンツェとその妹のゾフィー、クロセット博士に看取られ1791年12月5日月曜日午前0時55分ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは35年と10ヶ月余りの短い生涯をウィーンで閉じ、永遠の旅に出たのである。

おまえが平々凡々たる音楽家として世間から忘れられてしまうか、それとも有名な楽長として、後世の人たちにまでも書物のなかで読んでもらえるようになるか。。。ひたすらおまえの理性と生き方にかかっているのです。
(ザルツブルクの父レオポルトよりマンハイムのモーツァルト宛1778年2月12日付書簡)

ぼくは断言しますが、旅をしないひとは(少なくとも芸術や学問にたずさわるひとたちでは) まったく哀れな人間です!。。。優れた才能のひとは(ぼく自身それを認めなければ、神を冒瀆するものです)いつも同じ場所にいれば、だめになります。
ザルツブルクの父宛 パリ、1778年9月11日付書簡 ) 

死は(厳密に言えば)ぼくらの人生の真の最終目標ですから、ぼくはこの数年来、この人間の真の最上の友とすっかり慣れ親しんでしまいました。その結果、死の姿はいつのまにかぼくには少しも恐ろしくなくなったばかりか、大いに心を安め、慰めてくれるものとなりました!そして、死こそぼくらの真の幸福の鍵だと知る機会を与えてくれたことを(ぼくの言う意味はお分かりですね)神に感謝しています。
(ウィーンのモーツァルトから病床に伏した父レオポルト宛ての1787年4月4日付書簡)


Papageno.jpg       requiem.jpg
パパゲーノの扮装をしたシカネーダー         友人たちと「レクイエム」の完成部分を試奏するモーツァルト
初演時販売された台本に付された銅版画(1791年)     

2幕のドイツ語オペラ「魔笛 "Die Zauberflöte"」K.620
★大人も子供も楽しめるジングシュピール。フリーメイソンの思想が反映されているが、難しく考える必要もない。おとぎ話オペラと捉え、モーツァルトの音楽、素晴らしいアリアや重唱を楽しむべきであろう。
★1790年9月11日にシカネーダー一座が初演したジングシュピール「賢者の石」との類似性が興味深い。モーツァルトはこのジングシュピールのため1790年8月から9月にかけて喜劇的二重唱「さあ、愛しい僕の奥さん、僕と行こう”Nun liebes Weibchen, ziehst mit mir”」K.625/592aを作曲している。弊記事「猫とモーツァルト」ご参照。
★又、モーツァルトの1773年7月から9月にかけての3度目のウィーン旅行で、ゲブラー男爵の依頼により同男爵の作品である戯曲(英雄劇)「エジプトの王、ターモス ”Thamos König in Ägypten"」のための2つの合唱と5つの幕間音楽(K.345/336a)を作曲しているが、エジプトの神殿を舞台にしたこの戯曲も、「魔笛」の題材との共通性を持つものである。尚、当時枢密院顧問官であり同時にボヘミア宮廷宮内庁副長官の地位にあったトピアス・フィリップ・ゲブラー男爵もフリーメイソン結社員であった。

作詞者:ヨハン・エマヌエル・シカネーダー(Johann Emanuel Schickaneder 1751-1803)

舞台設定:台本にはいつの時代か、どこの国での物語か設定されていないが、第一幕第一場冒頭のト書きに「豪華な日本の狩の衣装を着たタミーノ(注:王子の名前)。。。蛇に追いかけられている。」とあり、このト書きだけを読むと日本の神話「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治」を思い起こさせる。又、エジプトの神殿やピラミッドを思わせるト書きがある。

あらすじ
第1幕
闇の国の夜の女王(S)は、娘パミーナ(S)を、対立する太陽の国の高僧ザラストロ(B)に奪われている。大蛇に追われた王子パミーノ(T)を夜の女王の3人の侍女たちが助けたのを契機に、王子に娘の救出を依頼する。侍女たちにパミーナの肖像を見せられ一目惚れした王子タミーノは、魔法の笛とグロッケンを渡され、鳥刺しパパゲーノ(Br)とザラストロの神殿(エジプト神話のオシリスとイシスを祀る)へと向かう。パパゲーノはパミーナを発見し、タミーノに引き合わせ様とするが、見張りのモノスタトスと奴隷が彼らの前に立ちはだかる。パパゲーノは魔法のグロッケンシュピールで難を避け、パミーナとそこに現れたザラストロの前にパミーノが連れられてくる。パミーナとパミーノはお互い夢にみた恋人であることに気づくが、ザラストロは二人に試練を命じ、二人を引き離し、タミーノはパパゲーノを連れて試練の途につく。
第2幕
ザラストロと神官たちはタミーノが試練に耐えて神に仕える資格を取得するために支援することを決議する。タミーノは僧侶たちから真の愛を手中に収めるには、3つの試練を乗り越えねばならないと告げられる。最初の試練は沈黙である。パミーナのもとに母である夜の女王が現れアリア「地獄の復讐にこの胸は燃える」を歌い、パミーナにザラストロを殺す様に命じる。ザラストロはパミーナに復讐よりも愛を説く。王子タミーノが吹く笛の音を目当てにパミーナは王子と再会するが沈黙の試練中のタミーノは一言もしゃべらない。失恋したと思いパミーナは悲しみ自殺せんとするが、3人の童子が現れパミーノはパミーナだけを愛していると死を思いとどまらせる。王子タミーノは第一の試練を突破し、残る2つの試練をパミーナと共に受けることになる。即ち、水と火の試練に2人は立ち向かい、苦しい試練を突破する。夜の女王たちと彼女の側についたモノスタトスは雷鳴と稲妻と嵐に追い払われ、燦然と輝く太陽の世界が出現する。3人の童子たちの励ましを受けてパパゲーノはパパゲーナと、タミーノはパミーナとザラストロに祝福されて結ばれ、神への讃歌が高らかに響く。

初演時の配役表(初演時のプログラムに記載):
ザラストロ:ゲルル氏/タミーノ:シャック氏/弁者:ヴィンター氏/祭司 第一:シカネーダー兄氏/第二:キストラー氏/第三:モル氏/夜の女王:ホーファ夫人/パミーナ:ゴットリープ嬢/侍女 第一:クレップフラー嬢/第二:ホーフマン嬢/第三:シャック夫人/パパゲーノ:シカネーダー弟氏/老婆(パパゲーナ):ゲルル夫人/モノスタートス:ヌーズール氏/その他司祭たち、奴隷たち、従者たち
夜の女王役のホーファ夫人とはモーツァルトの義姉(妻コンスタンツェの長姉)のヨゼーファ(1757年-1819年)のことでフランツ・デ・パウラ・ホーファ−(1755-96、宮廷楽団ヴァイオリン奏者)夫人。

モーツァルトはこのオペラの上演の様子をバーデンで湯治療法中の妻コンスタンツェに次の通り語るのである。(緑色の文字クリックで各場に移動)
金曜日10時半 夜
最愛、最上のかわいい奥さん!
たったいま、オペラから戻ったところ。いつものように超満員だった。第一幕の「男と女は」の二重唱グロッケンシュピールのところは、例の通りアンコールを求められた。それから第二幕の童子たちの三重唱も同様だった。でも、いちばんぼくがうれしいのは、静かな賛同だ!このオペラの評価が日ごとに高まっていくのがよく分かる。(1791年10月7日と8日付書簡)
*「男と女は」の二重唱:パミーナとパパゲーノの二重唱 「愛を感じる男なら"Bei Männern, welche Liebe Fühlen"」やさしい心をお持ちです。男も女も愛によって生きましょう。。。
グロッケンシュピールのところ:パパゲーノがグロッケンシュピールを鳴らすとモノスタトスとその一団が浮かれて踊り出す。「何て素敵な音色だろう。 "Das Klinget so Herrlich"」
童子たちの三重唱(第二幕):「ようこそ、またお目にかかりましたね"Seid uns zum zweitenmal willkommen"」「ザラストロの国へようこそ、預かっていた笛と鈴をお返しします。ゴールはまじか、沈黙を守って頑張れば、今度3度目にお会いした時はご褒美が貰えますよ。。。


                                  第1幕第7場第5番パパゲーノ、タミーノ、3人の侍女の
                                  五重唱「フム!フム!フム!フム!·······
序曲                                ”Hm! hm! hm! hm!·······"
     
The Metropolitan Opera Orchestra
ジェイムズ・レバイン James Levine

★第1幕第7場第5番パパゲーノ、タミーノ、3人の侍女の五重唱「フム!フム!フム!フム!·······”Hm! hm! hm! hm!·······"」
マンフレッド・ヘム Manfred Hemm(パパゲーノ), フランシスコ・アライサ Francisco Araiza(タミーノ), ジュリアーナ・ゴンデク Juliana Gondek(第1の侍女), ミミ・ラーナーMimi Lerner (第2の侍女) ジュディス・クリスティンJudith Christin (第3の侍女)
★「大蛇を倒したのは自分である」と王子タミーノに嘘をつき、他人の手柄を自分の手柄として自慢したがために鳥刺しパパゲーノは夜の女王に罰として口に鍵をされてしまう。そしてフム!フム!フム!。。。となる。3人の侍女(Dame)が現れ、女王の命令であるとして罰を解き、パパゲーノに二度と繰り返さないことを誓わせる。女王からの贈り物として、タミーノには「魔法の笛”Die Zauberflöte"」が、パパゲーノには銀のグロッケンシュピール”Glockenspiel"が渡され、魔笛とグロッケンがこれからの身の安全を図ってくれること、ザラストロの城には3人の童子が道案内をすると伝える。


第2幕第8場第14番                        第2幕第29場 
夜の女王(Königin der Nacht) のアリア             パパゲーナ!パパゲーノ!Pa-Pagena! Pa-Pageno!
地獄の復讐」Der Hölle Rache                 マンフレッド・ヘム Manfred Hemm(Papageno)
ルチアーナ・セッラ Luciana Serra                 バルバラ・キルドゥフ Barbara Kilduff(Papagena)
     

★第2幕第8場第14番 夜の女王(Königin der Nacht) のアリア「地獄の復讐」Der Hölle Rache
夜の女王に娘のパミーナはザラストロは高潔な方であると説明するが、夜の女王は「おだまり!(Kein wort!)」と叱りつけ、アリアを歌う。
地獄の復讐にこの胸は燃える。死と絶望の炎が我が身を焼き尽くす。お前がザラストロに死の苦しみを与えなければもう親でも子でもない。お前とは永遠に縁は切れ、お前は見捨てられるのだ。。。復讐の神々よ、聞かれ給え、この母の誓いを!」

★第2幕第29場 パパゲーナ!パパゲーノ!Pa-Pagena! Pa-Pageno!
パパゲーナがどこかに消えてしまい、意気消沈しているパパゲーノに3人の童子が「グロッケンシュピールを鳴らせばパパゲーナが現れるとアドバイスする。グロッケンを鳴らすと。。。
パ、パ、パ、パ、パパゲーナ!パ、パ、パ、パ、パパゲーノ!。。。うれしい神のおぼしめし、二人の愛のご褒美に可愛い子供をさずかれば嬉し。はじめは小さいパパゲーノ。それから小さいパパゲーナ。もひとり小さいパパゲーノ。またまた小さいパパゲーナ。パパゲーナ、パパゲーノ、パパゲーナ、パパゲーノ!ふたりはたちまち子だくさん!。。。


魔笛」はウィーンで大ヒットし、翌年1792年11月3日に上演回数100回を迎え、更に記録を更新しながら、ドイツ各地で上演されて行くのである。
かくしてモーツァルトは一般大衆のドイツ語による歌芝居であった「ジングシュビール」を「後宮からの誘拐K.384と「魔笛K.620を通じて芸術の域に高め、ウェーバーで確立されるドイツ国民オペラの礎を築くという偉業を残すのである。
★カール・マリア・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ヴェーバー Carl Maria Friedrich Ernst von Weber, ドイツ生まれ1786年11月18日-1826年6月5日、ロマン派初期の作曲家、指揮者、ピアニスト。モーツァルトの妻コンスタンツェは父方の従姉にあたる。代表作:「魔弾の射手 Der Freischütz」 1821年初演。

         ★☆★☆★     ☆★☆★☆     ★☆★☆★

魔笛以外に、この年後半には次の名曲が生まれている。

ホルン協奏曲(第1番)ニ長調 K.412/514(386b)
1月から10月の間。1777年までザルツブルク宮廷楽団のホルン奏者を務め、その後ウィーンに移住し、妻の実家のチーズ商をやりながらホルン演奏活動もしていた、モーツァルトの24歳年上の友人イグナーツ・ロイドゲープの為に作曲した4曲のホルン協奏曲の最後の曲。

クラリネット協奏曲 イ長調 K.622
10月初め完成。ウィーン宮廷楽団のクラリネットの名手で友人且つフリーメイソンの同志(結社員)でもあるアントン・シュタドラー(Anton Stadler 1753-1812)のために作曲。モーツァルトの唯一のクラリネットのための協奏曲であり、昇天する2ヶ月前に書いた最後の協奏曲でもある。モーツァルトの澄み切った心情が見事に反映されている。楽譜は完成後直ちに当時プラハに滞在中のシュタドラーに送付され、10月16日同地で行われたシュタドラーの慈善演奏会(ノスティツ劇場)で初演された。
★ノスティツ劇場は現在エステート劇場或はスタヴォフスケ劇場と呼称されている。

フリーメイソン小カンタータわれらが喜びを高らかに告げよ"Laut verkünde unsre Freude"」K.623
11月15日作曲。モーツァルトの完成した最後の作品(自作品目録に記載された最後の作品)。歌詞はシカネーダーが書き、アダムベルガーがテノールを歌ったとされている。フリーメイソンの絆にあるものの喜びやメイソンを讃え、メイソンへの忠誠を歌いあげるカンタータで、新たな息吹を感じさせる傑作である。尚、モーツァルトの最初のカンタータは11歳の時(1767年)にザルツブルクで作曲した「聖墓の音楽 Grabmusik」K.42(35a)であり、それに伴うエピソードが思い出される。
     
「レクイエム」ニ短調 K.626(未完成)
イントロィトゥス(入祭唱)ニ短調 アダージョ以外については弊記事「レクイエム」ご参照。未完成で終わったが、モーツァルト亡き後、弟子のジュスマイヤーがモーツァルトより受けた指示に基づき完成させた。


ホルン協奏曲(第1番)ニ長調 K.412/514              クラリネット協奏曲 イ長調 K.622
第一楽章アレグロ、第二楽章ロンド アレグロ               第二楽章 アダージョ ニ長調
     
ラデク・バボラク Redek Baborák(ホルン)
ベルリン・フィル Berliner Philharmoniker
ダニエル・バレンボイム(指揮)

★クラリネット協奏曲 イ長調 K.622
デイヴィッド・シフリン David Shifrin(Bassett Clarinet in A)モーストリー・モーツアルト祝祭管弦楽団 Mostly Mozart Festival Orchestra, 指揮:ジェラード・シュワルツ Gerard Schwarz


フリーメイソン小カンタータ「 われらが喜びを高らかに告げよ      レクイエム 二短調 K.626
"Laut verkünde unsre Freude" K.623              l. イントロィトゥス(入祭唱)ニ短調 アダージョ
     

「レクイエム」ニ短調 K.626(未完成)イントロィトゥス(入祭唱)ニ短調 アダージョ
グンドゥラ・ヤノヴィッツ Gundula Janowitz (ソプラノ)
ウィーン国立歌劇場合唱団 Chor der Wiener Staatsoperウィーン交響楽団 Wiener Symphoniker 
指揮:カール・ベーム Karl Böhm
Requiem æternam dona eis, Domine, 主よ、永遠の安息を彼らに与え、
et lux perpetua luceat eis. 絶えざる光でお照らしください。
Te decet hymnus, Deus, in Sion, 神よ、シオンではあなたに賛歌が捧げられ、
et tibi reddetur votum in Jerusalem. エルサレムでは誓いが果たされます。
Exaudi orationem meam, 私の祈りをお聞き届けください
ad te omnis caro veniet. すべての肉体はあなたの元に返ることでしょう。



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モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅②(マンハイム②)
モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅③(パリ) 
ザルツブルクのモーツァルト23歳(1779年)
モーツァルト24歳・ザルツブルク在住最後の年(1780年)
モーツァルトのミュンヘン旅行(「イドメネオ」作曲と上演の旅)
モーツァルト25歳の独立とウィーン時代の幕開け(1781年)
モーツァルト26歳の結婚と「後宮からの誘拐」(ウィーン②1782年)
モーツァルト27歳・演奏会の成功とザルツブルク里帰り(ウィーン③1783年)
ピアノ・ソナタ(第13番)変ロ長調 と動物たち(1783年ザルツブルクの帰途立ち寄ったリンツ関連) 
モーツァルト28歳・演奏活動絶頂期(ウィーン④1784年)
モーツァルトと小鳥たち (クラビーア協奏曲(第17番)ト長調(K.453)第三楽章の主題を歌うムクドリモーツァルト)
父レオポルト、絶頂期のモーツァルト29歳を訪問(ウィーン⑤1785年)
モーツァルト30歳・「劇場支配人」と「フィガロの結婚」(ウィーン⑥1786年)
フィガロの結婚(その1)序曲+第一幕第一景第一曲
モーツァルト31歳・父レオポルトの死と「ドン・ジョヴァンニ」(ウィーン⑦1787年)
ドン・ジョヴァンニ(その1)
モーツァルト32歳・三大交響曲とブフベルク書簡(ウィーン⑧1788年)
モーツァルト33歳・プロイセン(北ドイツ)への旅(ウィーン⑨1789年)
モーツァルト34歳・「コシ・ファン・トゥッテ」(ウィーン⑩1790年)
モーツァルト35歳前半・「皇帝ティートの慈悲」(ウィーン⑪1791年前半)


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